◇陳昌鉉「天上の弦・在日の虹」◇

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天上の弦・在日の虹

・陳昌鉉氏との出会い

 陳昌鉉氏との出会いは1982年、在日韓国人文化芸術協会(文芸協)創立総会の時以来である。その時、在日には文化がない、このような協会が出来ることを待ち望んでいたと喜んでいた。
 私は20代(1960年代)からの「リーダーズ・ダイジェスト」の愛読者であった。73年、同誌に「東洋のストラディバリウス」と陳昌鉉氏が紹介されていた。在日1世が世界で読まれている雑誌で認められ、紹介されていた事を、自分まで誇らしく感じた。これが陳昌鉉氏との御縁の始まりであるともいえる。私は今もその本を大切に保管しているが、その後に続いた文芸協の行事等でお会いして、その都度、在日の文化についての熱い想いを聞き尊敬の念を抱いていた。しかし日本社会や文芸協の間では、陳昌鉉氏の名声や名誉について、どの程度のものかという特別な評価や話題にもならず、本人自身も静かに身を処していた。私には、その状態がもどかしい感情を長い間抱いていた。

・光州市立美術館に寄贈

 1993年、私が光州市立美術館に美術品を寄贈するニュースを知った陳昌鉉氏は「在日の快挙だ、誇りである。」と祝意を表してくれた。その後、私は1999年に第2次、2003年に第3次と寄贈を続けていった。ところが、私は寄贈に当たり光州市に対し、何の条件も付けていなかった。そこで市側から、何か条件、要望はないかと問い合わせがあった。「それならば、無名ではあるが将来有望なる青年作家を育てる事業(青年作家招待展)を行ってはどうか。」と提案したところ、光州市立美術館のメイン行事の1つとして私の誕生月の11月に毎年の恒例行事として開催することとなったのである。
 私は陳昌鉉氏に、その経緯を伝えた。すると「私は在日2世としての勇志と、祖国に対する奉仕精神に共感している。私もあなたと同じ夢と希望を持って、前途ある青年作家達を育ててみたい。私は慶北出身であるが、日本が第2の故郷なら光州は私の第3の故郷。在日のイメージとして光州に永遠に残るでしょう。私のヴァイオリンを作品として河正雄コレクションに寄贈しましょう。」と意表をつく申し入れをされた。
コレクションの内容と質の向上という意味で、非常にありがたく思った。美術館側からヴァイオリンが美術品になるのかという物議が挙がったが、超一流の作品であることが認識された。2001年第1回河正雄青年作家招待展は、寄贈された東洋のストラディヴァリウスの名器が奏でるサラサーテ作曲「ツィゴイネルワイゼン」の演奏で開幕した。「ツィゴイネルワイゼン」(ドイツ語でジプシーの歌)スペイン生まれの名ヴァイオリニストであるサラサーテ(1844〜1908)の代表作。陳昌鉉氏は在日もある意味では自己の存在を捜す彷徨い人、ジプシーの血を持つ。エネルギーが湧くと、最も愛聴しているこの曲を選んだ。光州市立美術館でクラシックが奏でられたのは、これが初めてのことで、集まった観客に多くの感動と、意義を伝える事が出来た。
 陳昌鉉氏は翌2002年ヴァイオリン、ビオラ、セロの計3点を追加寄贈して下さった。第1ヴァイオリン光州号、第2ヴァイオリン大邱号、ビオラ漢拏号、セロ白頭号と命名され、寄贈された楽器による光州市立交響楽団の四重奏(カルテット)の演奏から始まる開幕式は、2004年11月23日に第4回を迎えた。光州市立美術館では定例化され歴史を刻んでいくこととなった。

・人生の岐路

 ヴァイオリン作りの名工、陳昌鉉氏は植民地下の1929年、韓国慶尚北道金泉郡梨川里で生まれた。13歳の時に父を亡くし家族は困窮していたため、中学進学を諦め14歳の時に生まれ故郷を離れ母と別離した。腹違いの兄がいる福岡に渡り、旧制中学の夜間部に転入した。博多では進学するために天秤棒で石炭を担いで船に運ぶ港湾労働。中学を出てからは神奈川、小田原の架橋工事現場や軍需工場で日雇い労働に従事した。横浜に出て輪タク(人力車)を始め学資を貯めた。そして教員を目指し、明治大学二部(夜学)の英文科で学んだ。しかし教員資格を取ったにも関わらず、当時日本国籍を持たないものは教員にはなれないという壁が卒業間際になって立ち塞がった。進路を見失っていた時に、日本ロケット開発の礎を築いた科学者・糸川英夫博士(1912〜1998)の「ヴァイオリンの神秘」という講演を聞いた。その事が人生の岐路となった。

 「音響物理学を駆使してストラディヴァリウスの音を分析し、同じ音色を再現できるであろうかと研究を重ねたが、現代科学の粋を集めても、その技術は解明出来ず謎であり神秘である。ヴァイオリンの名器を再現することは永遠に不可能である。」と名器ストラディヴァリウスの製作研究論文の糸川博士の講演を聞いた瞬間、陳昌鉉氏は雷に打たれたような衝撃を受けたという。
 形の美しさにおいても、作りの完璧さにおいても他に比類のない逸品を残した天才。
ヴァイオリン製作の「王の中の王」。世界最高の価値を持つ弦楽器を作り出したイタリアのクレモナ、アントニオ・ストラディヴァリ(1644〜1737)。名匠ストラディヴァリの卓越した腕は頭部の彫りやf字孔の美しさ、そしてニスの美しさにあると言われる。その音色は力強く、透明感があり、明るく輝きがあって、まさに芸術品であると言われている。
 「僕の進むべき道はこれだ。糸川博士をして匙を投げざるを得ない、不可能と言われた事を僕が成し遂げてみせよう。凡人の私が挑戦しても悔いる事はない。」と心に決めたという。人生を賭けた運命の始まりである。
 小学生の時、陳昌鉉氏の家に下宿していた相川喜久衛先生が良くヴァイオリンで「荒城の月」「桜」を弾いて下さったという。大学に入り教員になろうとしたのも相川先生のような先生になりたいという憧れがあったのかもしれない。その音色に見せられ、弾き方を教えてもらったことが、そう決心する伏線にあったのであろう。ヴァイオリンは「fidlle」とも呼ばれ、人に魔力をかける、人を誑かすという語感を持つという。陳昌鉉氏は、その時魔力にかかったのである。

 人間によって作られた物だから、必ず再現してみせると運命を決めた初心は非凡である。しかし、その野心は必ず名器を作るという信念でその道を選んだ訳ではなく、面白いと思ったことを好奇心でやる以上は、人生を棒に振って元々であるという楽天的なものであったのかもしれない。クラシック音楽の楽器作りという閉ざされた世界に全くの徒手空拳で挑み「前人未踏のヒマラヤの山々にも、そこに登ることの出来ない、厳しい氷壁があるからこそ敢えて人は挑戦する。執拗に挑戦し続ければ必ず、その壁を克服できるものと信じる。」という青春の情熱そのものが価値なのだ。

・道を拓く

 それから陳昌鉉氏はヴァイオリン製作のための弟子入り先を捜す行脚が始まった。しかし日本の製作者に当たったが決まって門前払いを喰らって、どこも受け入れてはくれなかった。アルバイトで食いつなぎながら28歳になったときに弟子入りを諦めた。朝鮮半島出身であるという辛酸を舐め、独学で学ぶしかなかったので失敗や挫折の連続であった。ストラディヴァリウスを越える夢に向かって執念と努力するところに可能性が広がっていった。そして行き着いた木曽福島に電柱などを利用した丸太小屋を建てアトリエ(ヴァイオリン工房)とした。ヴァイオリン関係者が多く住む木曽福島は職人の町。伝統的な木工芸の町に居を定めたことが後に繋がる。生活費は川底から掬った砂利を売って稼いだ。その地域では変人扱いされながら、教えてくれる師匠もいないままに独学研究の日々を送った。人から学べない為に、自然から学ぶしかなかった。風で揺れる枝の曲がり具合をヴァイオリンの曲線に生かす、創意工夫は木曽の自然の中から多くのものを学んだといえる。

 ヴァイオリンの価値は音とニスの色にある。1人で本を読み漁り、素材となる木を熟知し、独自の色つやの出し方を修得し、新品でも100年以上も使ったような艶を出すためにニスの素材を突き詰める実験を、未知の領域を手探りで試行錯誤しながら繰り返した。寿司屋の墨イカ、干したミミズの粉末や蝉の抜け殻、長男の便等、およそ考えつくもの全てをニスの原料にと試してみた。ミミズの鳴き声がストラディヴァリウスの最弱音に酷似していることを発見したのも偶然ではない。アフリカ大陸、インド、東南アジア、中南米等を放浪し、染料、樹脂を捜す旅から貴重な情報や資料を得ているのである。近年になっても、染料を求めてアマゾン上流のジャングルを1週間彷徨った。ヴァイオリン製作は勘や経験に頼る所が多く、論理的に出来るものではない。ヴァイオリン製作には公式が存在しない。自然を感じるままに感性を鍛え、研ぎ澄ます。感性を磨かなければ失われるものであり、努力なしでは維持向上を望むことは出来ないからだ。1%の可能性を求め、確信を持って1つのことを貫く。好奇心は可能性の出発点であり、能力を研ぎ澄ますことで道を拓くことが出来るのである。

・東洋のストラバリウス

 陳昌鉉氏のヴァイオリンは音がクリアで鮮明にして柔らかく甘美である。フォルムも自然と一体感があり、温かみがあると定評を得ている。木曽の自然が陳昌鉉氏の感性を育んだ出発点であることが、作風に自然と表れている。

 1961年になって完成させた40挺のヴァイオリンの中から10挺を東京に売りに出掛けた。そして、そのヴァイオリンを全部買ってくれたヴァイオリニスト篠崎弘嗣氏に出会ったことで大きく運命が動き始めた。人との出会いが、人生を動かすエッセンスとなるのは生きることの妙であろう。

 薦められて出品した作品が1976年フィラデルフィアでの「国際ヴァイオリン・ビオラ・セロ製作者コンクール」において全6部門中、5部門において金賞を受賞。1984年にはヴァイオリン製作者協会から全世界に5人しかいない「無鑑査マスターメーカー」の称号を授与される栄冠に輝いた。苦境の運命を弛まざる努力で克服したのである。

 「名器と呼ばれる楽器には絶妙な部分があり、それは自然の摂理の妙にかなっている。だから私の作品を名器だとは思わない。名器とされる楽器は自然の摂理に合致しているもので、法則で示すことが出来ないなら、思い切った発想と努力で暗中模索するしかないのだ。ヴァイオリンは神秘に満ち、永遠に謎の楽器である。私にとってストラディヴァリウスこそが虹、天上の弦である。自分は山で例えるならば7合目、ストラディヴァリウス等の名器は作者が80歳を過ぎた晩年に作られた物が多い。私はまだ75歳、これからです。何とか頂点を極めたい。」陳昌鉉氏は自らをそう評している。

・海峡を渡るヴァイオリン

 陳昌鉉氏の人間愛と波乱の人生をSMAPの草g剛主演でドラマ化したフジテレビ開局45周年記念企画・文化芸術祭参加作品「海峡を渡るヴァイオリン」が放送された。真摯に己の道を貫いた陳昌鉉氏の人生が草g剛の熱演によって見事に演じられていた。作品中、心に特に残った場面がある。オダギリジョー演じる相川先生が滝廉太郎(1879〜1903)の「荒城の月」について陳昌鉉少年に語る場面である。
「荒れた城に美しい月が出ている情景を思い浮かべなさい。」「何故城が荒れたのですか。」「勝っても負けても戦争をすれば城は荒れる。」というくだりである。まさしく戦争と、それを起こす人間の愚行の悲しさを描いていると思う。それは我々の「恨」の原風景でもあり、拭い去ることの出来ないイメージである。

 在日というマイノリティーの環境にいたこと。マイノリティーであることをハンディとするのではなく、逆に弾みにして不可能を可能にする力に変えて生きる道を捜す。
試練というハードルを乗り越えようと努力し続ければ天は力を貸してくれる。
「貧すれば鈍するという生き方は私の哲学に反する。在日だからこそ、日本や韓国にない独自の研ぎ澄まされた感性がある。真似の出来ないものが認められていくことで差別という壁を打ち崩していくことが出きるのではないだろうか。在日をマイナスの遺産と見るのは余りに一面的すぎる。

 我々が変わらなければ日本は変わらない。在日を取り巻く諸条件こそ、逆に在日の強みであり源泉である。日本で韓国、朝鮮人として生きるのにも意味があり、日本を豊かにする無限の可能性さえ持っていると思う。私は日本に来たからこそ、平坦ではなかったが好きな道を歩くことが出来た。運命が厳しかったからこそ、生きるために執念を燃やし、後ろ向きにならず真剣に生きてきた。在日で生きるには自分が日本社会に必要な人間であると思われるようにならなければならない。それには裏付けが必要であり、日本人、韓国人の何倍も努力して、それ以上の資質を持たねばならない。在日の存在を知らせ、見直してもらったことは幸せである。」
 陳昌鉉氏の人生は「在日だから」という訳でなく、志と夢を貫き通した艱難辛苦の人生から学ぶべき「人間の価値」がある。

2004年12月17日 東洋経済日報・一部省略文

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