◇孫雅由◇

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孫雅由(1949〜2002)―病状六尺―

―依願―

2005年8月18日韓国大田市の李在興アジア美術館長が我が家を訪れた。李承晩初代大統領が祖父に当たる方で日本への入国は始めてであるという。今まで日本の歴史認識の問題で思うところがあり、入国の機会がなかったそうである。

用件はアジア美術館コレクション展を光州市立美術館で開催する計画があり、私の記念室を貸して欲しいとの事であった。話が済んで在日の美術について関心を示されたので美術誌「美庵Bien」(2004/Vol.28)に掲載されている孫雅由を紹介した。その会話中に奥さんである桜井和子さんからの郵便で、孫雅由の画集が送られてきた。なんという偶然か、私は、そのことに驚きを隠せなかった。

同封されていた書簡には「お願いがあります。お知り合いの学芸員の方がおられましたらご紹介下さいませんか。私の希望としては孫雅由の作品を何点か収蔵していただければ寄付をしたいと思います。」という内容のものであった。その手紙には何か訴えかけるものがあるように思われた。



―ご縁―


孫雅由とのご縁を語りたいと思う。
1999年秋、京都太秦の孫雅由のアトリエを訪れたことがあった。第3回2000光州ビエンナーレを記念して開かれる河正雄コレクション「在日の人権展」への出品要請のためであった。

その時、孫雅由を「在日の人権展」に招待し、いつの日にか光州市立美術館の河正雄記念室で孫雅由展を開きたいと提案した。私の提案を孫雅由は大変喜び、「在日の人権展」の時には光州市立美術館で会いましょうと約束を交わした。

2000年2月2日、大阪府立現代美術センターで開かれる「孫雅由展」の招待状が届き、大阪で再会する事となった。

その時光州での孫雅由展の計画(交通費、滞在費、画材費など一切を負担するから光州で滞在し新しい作品を製作、発表してもらいたいという案)を具体的に提示し内諾を得た。
そして2000年3月29日、光州市立美術館にて2000光州ビエンナーレ記念「在日の人権展」が開催された。
開幕式に招待した孫雅由は美術館の展示場の図面を要求され、「3ヶ月ほど光州に滞在して製作してみよう。」と意欲を示された。
ところが、その翌日のこと体調が悪いのでホテルの部屋で休みたいと言われた。食がない、下痢が止まらない、お灸をすえて欲しい、マッサージをして欲しいなど同室していた私の息子(河洋樹)に頼んでいたようだ。

薬や精がつくようにと鮑のおかゆなどを差し入れしたりしたが、数日経っても一向に回復の兆しがあらわれないので、私はやむなく国立全南大学付属病院に入院の手続きをとった。だが、明日にでも京都に帰りたいという願いを聞き入れ、孫雅由は帰途に着いた。

それから2ヶ月も経った頃、息子宛に元気になったという便りがあり、2001年に福岡県立美術館で開かれる孫雅由展の案内があった。息子と共に、本当に元気になったのかなと語りあった翌2002年、報道で孫雅由が亡くなったことを知らされた。私は孫雅由と親密な関係を築いていたわけでもない。共に語りあい未来への展望へと約束しあった思い出は鮮明に残ってはいたが、孫雅由との御縁はここで断ち切られたものと思っていた。

だから桜井和子さんからの手紙に少なからぬ戸惑いがあったことは事実ではあるが、台風14号の嵐の中、取り急ぎ京都に出向いた。



―桜井和子さんの述懐―


2005年9月7日東山の智積院や泉涌寺に隣接する「今熊野」のバス停で桜井和子さんと始めてお目にかかった。近くに大石内蔵介の腰掛石があるという滑り石街道(別名山科街道)の脇道に入った、奥まったところにある自宅に案内され桜井さんは語り始めた。

「3歳の頃から教会に通っていて、そこで辛い事の半分、重荷の半分はキリストが背負っているという説教を聞いていました。孫が鬱状態で一日中同じ場所にじっと座っている日々が続いて悩んでいる時に、娘が体調を崩し、とてもしんどい日々が続きました。出来れば荷の全部をキリストに持ってもらいたい思いとコーラスで気を紛らわすため洗礼を受けることにしました。その時、立会人として京都本町ナザレン教会(2001年)に孫を連れて行きました。

3ヶ月後に、梅宮義信牧師を信じる事が出来ると言って孫も洗礼を受けました。(プロテスタントであるため洗礼名はない。)孫は癌であることが判ってから薬を飲んでも眠ることが出来ない辛い日々が続いておりました。洗礼を受けてからは不思議なほど寝られるようになり楽になったと言いました。

でも孫はクリスチャンでありながらキリストを裏切っていたと思うのです。亡くなる少し前に、私の預金通帳から「少し使った」と他人に漏らしていたのを伝え聞いたのは葬式が終わって3日目のことです。アトリエの家賃の精算に使われた様でもありますが、200万円ほどが下ろされておりました。そのお金で馬券でも当てて、今までの金銭上の精算をしておいてくれたら、そして、せめて一言「ごめんね」と生前に謝ってくれていればよかったのにと思うと悔しいですね。

孫は遺言でエーゲ海に散骨してくれと言っていたので、イタリアに行き〈2004年〉川に撒いたらエーゲ海に注ぐであろうと流す川を探しました。運悪く川は干上がって水がなかったのでバチカンのサンピエトロ広場の噴水に散骨しました。ローマ法王の下で心を入れ替えて修行を積み、良きキリストの弟子になって貰いたいと言う思いから、そこに決めました。

もう一つは隣接するバチカン美術館にはミケランジェロ、ラファエロ、ダビンチらルネッサンスの巨匠の絵があるので、これらの天才の隣にいる事が出来たら幸せなのではないか、とも思ったからです。

孫が鬱病であると気づいたのは結婚した時〈1979年〉です。孫の妹さんから「和子さんがいるからお兄さんも安心やなぁ」と言われたのでおかしいなあと思ったのは、今思えばこのことだったのでしょう。
私は尼崎の生まれ(父・桜井正身、母・シズエの一人娘、京都祇園町が本籍)ですが京都市立芸術大学造形科を出て豊中の中学で美術を教えている1979年頃、西宮の版画工房で孫と知り合いました。その時、孫は水中生物の印象を受けるドライポイントの小作品を製作しており、私も同じような抽象的な作品を作っていました。

結婚してから鉛筆で描く作品を始めましたが全然売れませんでした。半年に1枚売れる程度で、2万円ほどの収入しかありませんでした。その時は孫は精力的に作品を製作し、売り歩いておりました。私の年収は200万円ほどでしたので孫を支えることが出来ました。

結婚の際、神戸の先の三木で大衆食堂を経営していた孫の父が家財道具でも買うようにと200万円をくれました。孫はそのお金を半分ずつ分けようと言っていましたが、結局全部酒代として使い果たしてしまいました。孫は酒を飲んで家には帰らなかったことが多く、最初は気づきませんでした。

結婚してから孫の言動が飲んでいない時も攻撃的でダラダラと生活するようになり、アルコール依存症であることがはっきり判ったのは10年も経ってからのことです。アルコールを飲まなくなると鬱病、自立神経失調症を繰り返しておりました。

ドア1枚中に入った途端に性格が変わるという具合で、外で機嫌良くやっているのが辛いようでした。そんな私達の状況を見かねてか、孫の父母や通産省の研究所に勤めていた私の父が間接的に支えてくれるようになりました。この家も父が買ってくれたものです。

孫は自分から1度だけ病院に行った事(1996年)がありました。その時はアルコール依存症のグループカウンセラーを受けたのですが、自分は絵描きだから、もう行かないといってそれきり、病院には行きませんでした。その時の検査の結果、肝臓が悪くなかったからだと理由付けていました。

その頃、中島らもさんがTVで「女の人のろくろ首が見える」という幻覚の話をしているのを聞いて「自分もそういう幻覚を良く見る。」と言ったことがあります。

孫は自分以外の人間は判らないし、信じられない、付き合わないといった全く融通性のない世間を知らない人でした。自分の作品だけに執着する精神構造で、人格と行動においては作品と別であるかのように振る舞った人でした。芸術家にはよくある性質なのでしょうかね。

イギリス滞在(1997年〜1998年)している時に体調(1998年)を悪くしました。大腸癌が見つかり、腸閉塞で、すぐにでも手術を受ければよかったものを、病院に行くのが怖かったのでしょうか、2001年になって京都の日赤で手術をした時には既に肺、肝臓、リンパ腺、腹膜などに癌が転移しており余命6ヶ月との宣告を受けました。事実お医者さんの言う通り6ヵ月後に亡くなりました。宣告された時は本人も相当に堪えたようで、かなり落ち込んでいました。

体力が落ちるからと言って抗癌剤や放射線治療は一切せず、近所の病院で栄養剤の点滴を受けることしかしませんでした。

作品は完成しているから、作品のサインや美術館に収蔵するために整理することだけだと言って亡くなる直前まで、その作業に没頭しておりました。

亡くなる前日、風呂に入りたいと風呂場に入ったところ右腕が利かないと言ってから意識を無くし、救急車で京都第2医療生協病院に入院しましたが翌日(2002年2月21日)亡くなりました。」

淡々と忌憚なく語る話の内容に、私は相槌を繰り返すばかりで、孫雅由の実生活の生々しい実情と彼の作品世界とのギャップにただ驚くばかりであった。



―闘病の日々―

正岡子規(1867年〜1902年)の晩年、脊椎カリエスの闘病生活は壮絶であったという。
「絶叫。号泣。その苦、その痛、何とも形容することは出来ない。誰かこの苦を助けてくれるものはあるまいか。」(『病状六尺』岩波文庫)

そんな声がしてくるような話であった。それは病と闘う本人だけでなく、飽くなき芸術への欲求のために、その家族にも言える闘う地獄なのではないかと思った。

しかし極限状況の中で生み出された作品からは、6ヶ月の余命と宣告されてから死の直前まで作品に向き合って整理をしていった孫雅由の境地に私は無限の慈愛を感じる。

―収蔵―


孫雅由の作品は多くの美術館に収蔵されていることを桜井さんから知らされた。
記録によると
@2001年 福岡アジア美術館  13点
A2001年 伊丹市立美術館  287点
B2002年 宇都宮美術館     4点
C2002年 福岡県立美術館   79点
D2002年 国立国際美術館    4点
E2002年 京都国立近代美術館  3点
F2003年 兵庫県立美術館    2点
G2004年 和歌山県立美術館  47点
H2004年 東京都現代美術館   1点
I2004年 徳島県立近代美術館 14点
である。

死の宣告を受けて孫雅由自身が身辺の整理をし、作品を美術館に収蔵するために生前に手続きを取ったのは福岡アジア美術館、伊丹市立美術館、宇都宮美術館であった。
寄付理由を「朝鮮半島に古くから流れる美の源流が我々、在日のアーティストが持っていること、そして、その美に触れて頂きたく寄付をします。」と本人自ら記してあるものを見て、朝鮮半島と在日の狭間に生きる血を意識している孫を愛しく思った。

 

―出自―

孫雅由の略歴は別記で紹介するが、その略歴によると1949年9月16日大阪曽根崎にて在日韓国人2世として生まれたとある。

本籍簿によると慶尚北道迎日郡〈現・浦項市南区〉東海面イムゴッ里592番地にて父・孫洙翼〈本貫・慶州〉、母・張乙俊との間に、兄と弟3人と妹2人の7人兄弟の次男として生まれたと記載されていた。
私も布施市〈現東大阪市〉の生まれだが本籍地には全羅南道霊岩郡出生となっているように、在日韓国人は父母の本籍地を出生地として載せている。孫雅由も同様であった。

二つの祖国、二つの故郷の出自を誇り高く胸に抱いて孫雅由もまた在日を生きた記録が戸籍簿にはあった。

作品「色の位置」には唐辛子の赤色を連想させる民族的な色彩を使っている。そこから出自〈族譜〉が根幹にあることは孫雅由の行動や作品に投影されていることを感じ取ることが出来ると思う。

孫雅由の作品からは色々なジャンルの音楽がグローバルに協奏しているイメージがある。厳粛なクラシックもあれば、陽気で軽快なラテンやジャズ、洒落たシャンソンや哀惜漂うパンソリもあるというように複雑に色が音楽のように共鳴しあっている。リズミカルで伸びやかな線の動きが自由に歌い、豊潤な色彩がハーモニーとなり平安を奏でている。

孫雅由には音楽のセンスを感じることはなかったと桜井和子さんは語ったが閉ざされた心の中で孤独を紛らわすために孫雅由は作品により「協奏曲」を作曲し奏でていたのかもしれない。

残された作品は桜井和子さんが孫雅由の遺志を継いで各美術館に寄附収蔵したものである。この作業は孫雅由の生の証であり死して尚、美術活動の終着点を目指す執念であると思う。

この努力により、次の世代に孫雅由の存在を記憶される事は間違いないことで、必ずや孫雅由は作家として祝福を受けるものであると思う。それは遺志を継いで収蔵に尽力される遺族に対してもそうだと私は思う。

―画論―

以下は私が読んだ孫雅由の主なる画論である。
「絵画の根源から出る、視覚的実験 福岡市美術館学芸員・山口洋三」
「関係する線―孫雅由作品集に寄せて 手塚山学院大学美術史教授・島本浣」
「立ち現れる線と色 孫雅由の世界・師子堂恵信」
「"孫の絵画の身体性"・"精神の〈場〉としての風景−孫雅由の絵画について"
 国立国際美術館主任研究官・中井康之」
「光と大気 大阪府立現代美術センター学芸員・小口斉子」

どの画論も孫雅由の美術世界を理解するのに助けになっている。「光と大気」の文末に"予響曲・コバルトブルー&イエロー"の作品について「孫はこれらの作品を自己の癒しの為に描いたと語ったが、その作品によって我々もまた自己の存在を確認し、癒されるのである。」という文が私には身近に感じられた。これらは生の終局を燃やし、死の旅立ちの世界を見続けていたような作品であり、孫雅由が到達した美術世界の終着を暗示させ、生の感動をもって表現をしている。「泥中に一蓮華」と言える静謐な作品を残されたことは福音ではなかろうか。

―もの派―

今、石や木、紙や綿、鉄版やパラフィンといった〈もの〉を素材に物質や物体を直接的に提示した表現を作品としていた「もの派」が韓日の美術界で再考されているが、美術を志した出発点において「もの派」の高山登〈1944〜〉に師事したことで、孫が求めた美術世界は形成されたように思われる。

高山登は2000光州ビエンナーレで光州市立美術館の前庭に枕木を使った作品を出品し、孫雅由は同美術館において「在日の人権展」に"空間の間合い"の作品を展示し師弟が奇しくも出会うこととなった。

高山登の父は戦前に朝鮮から日本に渡って来た治金技術者であった。近代化、国家、アジア、民族、戦争とは、民族的な出自から反時代的に問う「枕木」の立体作品には力強く訴えるものがあった。
孫雅由の作品は郭仁植、李禹煥、文承根と受け継がれた表現様式「もの派」の源流から自己の表現を試みた作家であることを確認させるものであった。

何故か高山も孫雅由も生とも死とも直結している、異界への入口を連想させる痕跡の対比をもって過去をも連想させる作品があるのは死生観を共有しているのではないかと恨(ハン)深い世界を私は感じるのである。

孫雅由の絶作"予響曲・コバルトブルー&イエロー"は、メッセージとして、それらのことを語っているように思えてならない。

―コレクション―


私は孫雅由に対する色々な想いから京都に3度出向き、そして桜井和子さんと会った。作品を整理し話を進めるうちに孫雅由はなんと幸運な作家であったのかと思うようになった。

彼は桜井和子さんの話によれば決して品行方正ではないし、善人とはいえない。普通の人が眉をひそめるような、一般人とは違う価値観でものを見て行動し、全霊を幾重にも重ねられた芸術の創造に捧げて生きたからだ。

肉体は滅びても、作家には作品が残る。それは、その作家の肉体と精神の分身ともいえるものであり、死してなお生き続ける。それは祝福でもあるのではないか。

孫雅由は父母に恵まれ、妻に恵まれ、子は二女に恵まれた。俗ではあるが周囲の愛すべき人材に支えられた恵まれた人である。

そして自らの血肉である作品が日本の著名なる美術館に収蔵されたことは在日作家としては稀な事であり、評価を受けることは恵まれたことだと思う。

作家として自分は1番であると周囲を気にもせずに芸術活動一筋に駆け抜けていった。周囲に苦労も恨(ハン)も振り撒くのも構わず芸術家として誇り高く1人良く生きたといえるのではないか。

李在興アジア美術館館長は「早逝は何も作家にとって損失ではない。ボロが出ないうちに去ったことがラッキーな作家もいる。」と語った。なんと皮肉で、しかし含蓄のある言葉ではないだろうか。そして「これからは日本を知るため、在日を知るため、年に一度は必ず河さんを訪ねる」と付け加えた。

こうして残された作品174点は河正雄コレクションに収蔵されることとなった。
祖国の光州市立美術館に河正雄コレクションとして新たに在日作家孫雅由の名が永遠に記録され、愛されることになるであろう。

この収蔵にあたり寄贈者の桜井和子さん、そして資料を提供して下さった「アートスペース虹」のオーナー熊谷寿美子さんに心から感謝する。



孫雅由 略歴 SON AH-YOO

1949 大阪曾根崎にて在日韓国人二世として生まれる
1966 美術家を志し上京、高山登の教えを受ける
1968 多摩美術大学入学、そして自主退学
1975 ドイツ留学のため一時帰阪するが、アクシデントがあり渡独を断念。
    その後、父親の仕事を一時手伝う
1976 兵庫県宝塚の山中に小さな小屋をアトリエにして「現前」シリーズを制作する
1978 始めて祖国韓国の土を踏み、景福宮(李氏朝鮮朝の王宮)の石組みを見る
1980 兵庫県西宮に、工房イュプシロンを設立し、アートプロデュースを開姶する
1994 京都東山に住居を移す
1995 阪神大震災により、工房イュプシロン全壊
1996 京都太秦にアトリエを移す
1997−98 スコットランド、エジンバラに人智学研究のため留学
2002   2月21日死去

インスタレーション・パフォーマンス・その他

1969 神奈川県戸塚養鶏所跡地にて「記憶衷失」
    (高山登の「地下動物園」を風景に取り込み"土"と "からだ"を関係づけたパフォーマンス)
1970 東京東村山にて16mmムービ作品「儀式」を制作(四方形のパネルの四すみを燃やす)
1971 ムービ作品「囲い者」制作
    西銀座画廊にて「飼育」(綿と鉄鋼を使ったインスタレーション)、
     ムービ作品「波長」制作
1973 16mm映像作品「個的な破戒された未来図」制作
1981 インスタレーション「埋葬」シリーズのマケット制作に着手
1993 「自立する色・音」公開制作のタベ、チェロの音に乗せて(デイオ・ミオ38/西宮)
    公開講座「版とドローインクの関係」(宮城県美術館)
1994 岩本弘人とセッション、インスタレーション「炎舞」「光舞」(西脇市岡之山美術館)
2000 money・ 2000-01インスタレーション
    アイデンティティーの確立(大阪府立現代美術センター)

個展

1977 銅版画による個展「培養器」(画廊みやざき/大阪)
    ドローインクによる個展「形態の消去」シリーズ(信濃橋画廊/大阪)
1978 銅版画による個展「封印された情景」シリーズ(フラワーコレクションギャラリー/大阪)
    ドローインクによる個展「現前」シリーズ(ギャラリー風/大阪)
1979 ペインティング&プリントによる個展「白の間合い」シリーズ(ギャラリー風/大阪)
    銅版画による個展「封印された情景」シリーズ(韓国ギャラリー/ソウル)
    銅版画と水彩による個展「封印された情景」シリーズ(シティーギャラリー/神戸)
1982 ドローインクによる個展「白の間合い」シリーズ(天野画廊/大阪)
1983 「チャリティー1人展」(工房イュプシロン/西宮)
    銅版画による個展「自然の配列」(アートスペース虹/京都)
1984 モノタイプによる個展「形態の消去」シリーズ(アート・ギャラリータピエス/神戸)
1985 フロッタージュ作品より「記憶の痕跡」(アートスペース虹/京都)
1986 「白の間合い」シリーズ(エスエズギャラリー/東京)
1987 「負の色・虚の位置」10年間の歩み(駐大阪大韓民国総領事能ホドリギャラリー)
1989 「色移動」シリーズ(西脇市岡之山美術館/西脇)
    「色の位置から石の作法へ」(不二画廊/大阪)
1991 「色の位置から自立する色へ」(ギャラリーすずき/京都)
1992 「内側から外世界へと向かう視座と色」(不二画廊/大阪)
1993 「自立する色・音」公開制作のタベ(ディオ・ミオ38/西宮)
    「空間の表裏・記憶の痕跡」(ギャラリー青城/仙台)
    「自立する間合い」(ディオ・ミオ38/西宮)
1994 インスタレーション「空間標的」(西脇市岡之山美術館/西脇)
    新作ドローインク展「空間の表裏・記憶の痕跡」(アートスペース虹/京都)
1995 「空間の詩学」日韓学術文化フォーラム(京都市国際交流会館)
1996 「空間の詩学」(アートスペース虹/京都)
1997 「色波動一身体・物質宇宙」孫雅由作品集出版記念展(アートスペース虹/京都)
1999 新作展「エジンバラの夢」(シティーギャラリー/大阪)
    「空間の詩学」25年間の仕手(シティーギャラリー/大阪)
2000 今日の作家シリーズ33 孫雅由展「立ち現れる物/身体・物質・宇宙」(大阪府立現代美術セン    ター)
    孫雅由展「光と大地」コバルトブルー&レモンイエロー(アートスペース虹/京都)
2001 福岡アジア美術館・福岡県立美術館 孫雅由展
2002 伊丹市立美術館 孫雅由展
2003 追悼 孫雅由展(アートスペース虹/京都)

国内展

1972 インスタレーションによる4人展(西銀座画廊/東京)
1979 第3回現代版画コンクール展(大阪府立現代美術センター、旧大阪府民ギャラリー)
1981 第1回吉原治良美術コンクール展(大阪府立現代美術センター)
    第1回西武美術館版画大賞展(西武美術館/東京)
1984 第1回チャリティー現代美術展(工房イュプシロン/西宮)
1986 現代の「白と黒」(埼玉県立近代美術館)
1990 「民主・自由・人権6・4天安門事件一年忌展」(現代中国芸術センター、ギャラリー阿唔館)
1993 韓国現代作家2人展「東洋の眼・東洋の精神」(画廊彩博/尼崎)
2002 伊丹市立美術館 孫雅由展
2005 追悼 孫雅由展(アートスペース虹/京都

国際展・海外展

1981−87 第14−17固リュブリアナ国際版画ビエンナーレ<83−87招待>(旧ユーゴスラビア)
1982    第7回英国国際版画ビエンナーレ<招待>(ブラッドフォード美術館/英国)
1982-84 第10・11回イビザ国際版画ビエンナーレ(イビザ現代美術館/スペイン)
1982-88 幕8-11回リエカ国際ドローインクビエンナーレ<招待>(リエカ近代美術館/旧ユーゴスラビア)
1982-89 第6-9回ノルウェー国際版画ビエンナーレ<招待>(フレデリクシュタット/ノルウェー)
1983    第3回ミニプリント'83(バルセロナ/スペイン)エレガンスミニチュア(サンフランシスコ近代美術館/USA)
       第1回中華民国国際版画ビエンナーレ(台北市立美術館/台湾)
1983・86 第9・10回ビエラ賞国際版画トリエンナーレ<招待>(トリノ/イタリア)
1983−89 第7−9回フレッヘン国際版画トリエンナーレ<83招待>(ドイツ)
1984    第5回ベルギー国際版画ビエンナーレ<招待>(工ルミタージュ城/ベルギー)
1985    第10回グレンヘン国際色彩版画トリエンナーレ<招待>(スイス)
      「ハイライトー第9回リエカドローインク展より選抜巡回展」(アートカウンシルギャラリー/
      ベルファースト/北アイルランド、その他スコットランド、イングランド、北ウェ−ルズ巡回)
      「プティフォーマ」<招待>(プティフォーマ美術舘/ベルギー、その他フランス巡回)
1986 インターナショナルアニュアル<招待>(現代美術センター/パリ/フランス)
    日本−ハワイ交換展(アカデミーオブアーツ/ハワイ/USA)
1987 第4回カターニア国際版画展(カターエア芸術センター/シシリー/イタリア)
1987・88・93 第5・6・8回ウッジ国際版画ビエンナーレ<93招待>(ポーランド)
1988 「∃一口ッパと第3世界」<招待>(ウィーン、ザルツブルク/オーストリア)
    「インターセクションコレ」<招待>(ルクセンブルグ)
    第1回ペルピニャン国際版画展<招待>(フランス)
    第5回ポートレート国際ビエンナーレ<招待>
    (ツツラボートレート美術館/旧ユーヨスラピア)
    第11回グレンヘン国際版画トリエンナーレ特別企画展<招待>(スイス)
    ミニアチュール4(GAMLEBYENギャラリー/ノルウェー)
1989 「プティフオーマドパピア ジャボン '89」<招待>(プティフォーマ美術館/ベルギー)
    インターグラフイカ '90<招待>(ベルリン/旧東ドイツ)
    アンドレセン・バルトザック・ソン3人展(エスタンプコレ/ルクセンブルク)
1989・95・97 第1・4・5回バルトバーバン国際版画ビエンナーレ(ローバンカー美術館/インド)
1993 オーストリア韓国交流展<招待>(ウィーン/オーストリア)
    第1回マースリヒト国際版画ビエンナーレ(ダッチインターナショナル美術館/オランダ)
    ミニプリント スロペニア(マリボーアートギャラリー/スロペニア)
    「lmpreza93」(ウクライナ国立美術館)
1993-99 第1-3回エジプト国際版画トリエンナーレ<招待>
    (ナショナルファインアートセンター/ギザ/エジプト)
1997 第9回バルナ国際版画ビエンナーレ<招待>(ブルガリア)
    クラクフ国際版画ビエンナーレ<招待>(ポーランド)
1998 インターナショナルトリエンナーレ<招待>(ノイエンベルクアートセンター/ドイツ)
    第3回国際版画トリエンナーレ(ラーティ市立美術館/フィンランド)
1998 第3回国際版画トリエンナーレ(ラーティ市立美術館/フィンランド)
1999 インターナショナルトリエンナーレ<招待>(リオデジャネイロ近代美術館/ブラジル)
2000 第10回ペーパーワークス展(ビロアンドアートセンター/ベルギー)
    光州ビエンナーレ記念「在日の人権展」(光州市立美術館/韓国)
2001 大阪トリエンナーレ2001 入選

パブリック コレクション

 イビザ現代美術館(スペイン)
 フレデリクシュタット美術館(ノルウエィー)
 プティオーマ美術館(ベルギー)
 J・ダラビー・ギャラリー(ロスアンジェルス/USA)
 大英博物館(ロンドン/英国)
 ノルウエ‐現代版画美術館(ノルウエー)
 エスタンプコレ(ルクセンブルグ)
 元庫文化財団(ソウル/韓国)
 ギザ王立アートセンター(エジプト)
 ウクライナ国立美術館
 Pdnshwowd Galeria Sztuki(ポーランド)
 スロベニヤインターナショナルクラブコレクション(スロベニヤ) 
 ベルリン市ダッチインターナショナル美術館(オランダ)
 大阪府立現代美術センター
 光州市立美術館(韓国)
 ワルシャワ国立美術館(ポーランド)
 天野画廊(大阪)
 ギャラリー・ド・メーヌ(滋賀)
 アートギャラリー タピエス(神戸)
 島田画廊(旧エスエズギャラリー/東京)
 AD&Aギャラリー(大阪)
 砂盃コレクション(前橋)
 利岡コレクション(京都)
 河崎コレクション(西宮)
 王清一コレクション(京都)
 関口コレクション(仙台)
 野口コレクション(仙台)
 田中恒子コレクション(京都)
 河正雄コレクション(埼玉)
 福岡アジア美術館
 福岡県立美術館
 伊丹市美術館
 兵庫県立美術館
 和歌山県立美術館
 国立国際美術館
 京都国立近代美術館
 宇都宮美術館
 東京都現代美術館
 徳島県立近代美術館

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