陳昌鉉先生の木曽福島町名誉町民章受章を祝う言葉

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2005年9月の中頃、陳昌鉉先生の奥様、李南伊さんより「木曽福島町より名誉町民推戴のお話がありましたが、名誉町民になるとどんな責任と義務があるのでしょう。」とお電話を頂きました。

「責任や義務などはありません。陳先生を愛し、尊敬し、誇りに思っています、という木曽福島町民の純粋なる民意であると思います。世界で5人だけのアメリカ製作者協会からの『無鑑査製作家の特別認定とマスターメーカー』称号に対する業績と、人格を認めて下さったのですからありがたくお受けになるのが自然かと思います。」と私は答えました。

私の知るところでは、これまで日本社会において在日一世の韓国人が、特に芸術文化関係では初めての名誉であり快挙であります。

木曽福島町が在日の存在を認められ、知らしめ、陳先生を顕彰して下さることは在日の我々だけでなく祖国韓国の人々にも光栄なことであり、誇り高く励みになるありがたいものであります。
これは木曽福島町の皆様にとっても等しく大きな喜びで新生木曽町の門出を飾る歴史的な慶事であるはずです。

お隣の山梨県北杜市高根町五町田出身の方で、戦前に韓国に渡り韓国の土になった人がいます。植民地政策化の朝鮮で、民芸の中に朝鮮民族文化の美を見つけ出し、朝鮮の人々から愛された浅川伯教、巧兄弟です。

弟の巧さんは、林業技手として朝鮮の緑化に尽くし、お兄さんの伯教さんと共に朝鮮民族の誇りである、失われた白磁や青磁、工芸を研究し著書を残されました。

朝鮮語を学び朝鮮文化を理解し、伝統文化である韓国民芸に捧げた生涯を送られた方です。朝鮮人は日本人を理解しなくても、浅川兄弟を愛し、韓国人の尊敬を受け、評価を高めております。

今、巧さんはソウル郊外の忘憂里の墓地に眠っておりますが、そのお墓は韓国の人々によって敬愛の情を持って守り続けられております。

墓の碑文に"韓国が好きで韓国を愛し韓国の山と民芸に捧げた日本人、ここに韓国の土になれり"と記されております。

私は在日二世でありますが、在日で生きるための哲学を学んだのが、浅川巧の生き方からでした。正常でなかった時代に、稀有なる人類愛に生きた、私が憧れ尊敬する日本人です。

浅川巧は韓国の山河を愛し、歴史と文化を大きく深いところで理解し、国や民族を乗り越えた共生を考えていた、国際理解の視野を持った、国際親善の先駆者であったからです。

私はこの度の慶事が、浅川兄弟の活躍と重り思えて、時空を超えた感慨深い熱いものがあります。
温故知新、「故きを温ねて新しきを知る」の例えにもあるように、先駆者の教えが木曽福島の人々の心に生きているようで、心が温まります。

陳先生の名誉町民の受章は共生のモデルとして模範的で誇り得るものであります。
普遍的な人間の価値にこそ、人生の指標があるということを、確認させて下さいました木曽福島町の英知と見識に、敬意を表します。

陳先生の「東洋のストラディバリウス」が生まれたルーツが、木曽福島の町にあったこと、陳先生の青春を育んだ自然の偉大さ、そこで営まれた人生の波瀾と至高を追及する気高い精神は天と地、そして人知る厳粛なるものであります。

第二の故郷木曽福島の町で李南伊さんと契りを結ばれ内助を得たことが、陳先生にとっての幸運の原点であったのだと、私は心から祝福致します。

木曽を賛辞する
「血につながる、人につながる、ことばにつながるふるさとがある」

という島崎藤村の言葉が陳先生の感懐そのものであると私は喜びを共にしております。

「この世の中に無駄なものはない。あるものは全て必要なものばかり。試練も困難も無駄ではない。」と言う陳先生が到達した頂きには悟りがあります。

「天上(てん)の弦 ふるさとありて 人とあり 艱難越えた 山のかずかず」

後に続く私達は陳先生の偉業に対し喜びを共にし、希望をもって、この慶事を讃え歌います。

陳先生の「東洋のストラディバリウス」の音色が、日本と韓国を架け橋して、平安と永遠なる友情と親善を奏で、陳先生の名声と新生木曽町の無窮なる発展を世界に鳴り響きますよう、祈りたいと思います。


2005年10月23日 木曽福島会館大ホールにて

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