◇木地山こけし◇

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木地山こけし

―心の交流―
木地山こけし工人阿部平四郎さんとの心の交流の一端を語ろう。

2003年12月19日のことである。阿部平四郎さんからの宅急便でこけしが届いた。

「昨夜は静かだと思っていたら、やはり雪が屋根に白く積もって今も降り続いています。愈々、冬将軍の到来と言うことでしょうか。十文字町(現横手市)の泉谷好子さんから大学の美術学名誉博士号を授受されたことをお聞きしまして嬉しくなりました。

世で言う偉い人の考え方は余り好きではありません。どれだけ皆に喜びを与えたかで判断したいものと考えております。良いものはいつか認めてもらえることを信じて私のものを作れる喜びを感じて下されば幸いと思っております。私も発病以来10年以上になりますが幸い下半身の不自由だけで、余り弱らないでいるのは本当にありがたことで感謝の毎日です。

妻と娘と二人で一生懸命介護と世話をしてくれるので少しづつでもこけしを作ることが出来るので嬉しいことと思っております。皆の思いに報いる為にも十分自愛し、注意して良いこけしを残したいと思っております。お祝いの気持ちだけですがこけしを送ります。」と手紙が添えられていた。
 私はお礼に妻が漬けた自家製キムチを送り謝意を示した。

「新年に入って早や一月も過ぎようとしております。お宅様からいただきましたキムチ漬けの近況をお知らせいたします。我が家では白菜の切り漬けと申しまして一寸位に切った白菜に、いただいたキムチを小さく切って混ぜて漬けることで丁度良い美味しさのキムチの一夜漬けとしております。

辛いのは苦手なので今までスーパーからキムチの素を買って刻んだ白菜に入れておりましたが、本場の仕込とは比べ物になりません。南蛮も日本のものとは違い見た目より辛さもマイルドで色々な物が入っているようで美味しいですね。こちらは雪の中で冷凍庫と同じですので容器を軒先に置いています。」と奥様の陽子さん(陽子さんは阿部平四郎さんを師匠とするこけし工人である)から私の故郷仙北市西木町上桧木内の紙風船上げ行事の絵葉書にしたためられたお礼状が届いた。

―こけしとの出会い―

2001年9月5日、私は光州市立美術館名誉館長(終身)に任命された。1993年より光州市立美術館に私のコレクションを寄贈した実績を認めて下さり、その事を記念して河正雄青年作家招待展を毎年秋に開催することとなった。

ここに至るまでに私は周囲の方々にお引き立てとご指導をいただいて生きてきた。そのご恩に報いるべく私は記念品を準備しようと思い立った。併せて毎年選出される無名の青年作家達を励ます記念としての副賞とするためでもあった。私は迷うことなく秋田のこけしにしようと決めた。

秋田で生きた18年は林檎の空箱が机代わりで、我が家には雪が舞い込み雨だれが落ちる中で日々を過ごした。そんな時代に町の店先に飾られていたこけしを「ああ、こんな可愛いこけしが我が家にもあったらなあ」と眺めていた事があった。

高校を卒業して秋田工業高校時代の同級生中村龍一君が「秋田に住んでいながらスキーも無く滑れもしないのか。教えてやるからスキーに行こう。」と言って鳴子に連れて行ってくれた。当時、日当260円で働いていた私は、清水の舞台から飛び降りるような気持ちで鳴子のこけし2本(中鉢君雄・菅原直義 作)を購入した。これが私のこけしコレクションの始まりであった。そのこけしは我が子、そして孫の良き遊び相手となり、今は黒光りして骨董品のようになっている。

―故郷の思いで―
戦後の苦しい秋田の生活を思い出すと必ず、あどけないこけしが瞼に現れ私に微笑み語りかける。泣くな、挫けるな、愚痴るな、負けるな、いじけるな、不平不満を言うな、人のせいにするなと…こけしはただそこにあっただけであり、それは私の自問自答に過ぎない。しかしその姿には無限の愛と包容力を感じさせる精神性を感じ、美しく神々しくも思える。仏様と対峙する時のような祈りの境地も感じる。

ちあきなおみがデビューした1969年に唄った「帰れないんだよ」(星野哲郎作詞・臼井孝次作曲)に「秋田に帰る汽車賃あれば 1月生きられる だからよ だからよ 帰れないんだよ」というフレーズがある。帰りたくても帰れない時代は私も同じ境涯であった。しかし折れそうな心を支えてくれたのはかけがいのない故郷の思い出である。故郷の思い出の中、心に浮かぶこけしの優しい慈愛の表情が、静かに私の人生を鼓舞してくれたと言っていい。

―阿部平四郎さんとの出会い―
私は友人の泉谷好子さんに「お宅の近くに木地山のこけし工人がいたら紹介願えないだろうか。」と電話をした。そして紹介いただき資料が送られてきたのが阿部平四郎さんであった。

10年も前のことである。都内のデパートで「みちのくのこけしまつり」が開かれていたので、懐かしさもあり立ち寄ってみた。東北各地のこけし工人たちの製作実演があり、大変賑わっており驚かされた。また並べられているこけしの数の多さにも圧倒された。

私の目は自然と秋田のこけしに移っていった。数ある中から清楚で純朴な、笑顔が可愛く慈愛に満ちた表情のこけしが私の目に入った。そのこけしが阿部平四郎こけしであった。

資料に目を通し、その事を思い出した私は阿部平四郎さんに作品を作ってもらうことにした。初め、韓国ではこけしに馴染みがなく、価値がわからぬようであった。工芸か民芸品、観光土産程度の認識でしかなかったようだ。

しかし時が経つにつれ、こけしを贈った人から「こけしには時が経っても少しも古さを感じさせない美がある。心の触れ合いがあり、その優しさが心を温めてくれる。」と言う感想をいただくようになった。また私の故郷秋田にも興味を持ち、行ってみたいとも言ってくれる様になった。韓国の人々にもこけしの芸術性、精神性、ひいては日本の郷土性をわかってくれるようになった事が私には何より嬉しかった。

―こけしについて―
「ろくろ挽きの、手も足もない筒型の胴と丸い頭。墨の黒と赤・緑・黄・紫の原色のみの色彩。ただそれだけの木人形を、こけしという。

こけしは東北地方で生まれ育った。東北人の素朴さ・質実さが、簡素の極みと言い得るような形体を生んだ。木地職人の確かな腕が、その形を表出させる時、簡素であることは限りなく繊細であることへつながる。職人は鉋を持つ腕の、筆を運ぶ腕の動きの、微妙な違いに千差万別の表情を埋め込むのである。それは自分の姿であり、土地の人々の生活であり、人間の生き様である。」と阿部平四郎さんは文にしている。

こけしという名前は戦後に始められた新型こけしの事で、観光地などのお土産で見られる。しかし本物の伝統こけしは東北固有の風土の味わいを宿した郷土玩具で、東北地方の各地で伝えられた独特の模様や形が受け継がれて作り続けられたものをいう。東北各地の木の椀や盆などを挽く木地屋が湯治場などで子供の玩具として作ったものと思われる。

こけしの歴史は2〜300年のもので文化文政の頃と考えられる。何故東北地方以外には無いのかという疑問に阿部平四郎さんは諸説ある中から、自論を提示してくれた。

「親が子供を愛する気持ち、可愛い子供が丈夫に育つようにと祈りを込めたもの。高価な玩具を買い与えることが出来ずに、人形の形に作ったものを挽師の親が子供に与えて喜ばれた事がこけしの始まりである。」阿部平四郎さんらしい優しさ溢れる解釈であると思う。

―伝統こけし―
 師弟相伝の形で、その製作技術や、形、模様等が一族や弟子に伝えられて外にない、その土地、その家系に定着した独特のものが伝統こけしである。

伝統こけしは福島県の土湯系。宮城県の遠刈田系、弥治郎系、鳴子系、作並系、肘折系。山形県の山形系、蔵王系。秋田県の木地山系。岩手県の南郎系。青森の津軽系の11の系統に分かれ系統特有の特徴を持っている。こけしは「東北の顔である」と称するのは東北の風土を反映しているからであろう。こけしは東北地方が誇る抽象的かつ象徴的な伝統ある日本の美なのである。

木地山系について述べると秋田県雄勝郡皆瀬(現湯沢市)木地山と稲川町(現湯沢市)を中心に発達した系統で胴(前垂れ模様が有名。菊のみを描いているものが多いが、梅の花を描いた着物模様が良く知られている)と頭が繋がっている作り付けの構造が特徴。頭部は大きい前髪と髷に赤いテガラを付け、黒いおかっぱ頭もある。古くは一筆描きにして瞳や眉も省略し、頭部の後ろにつけた毛を付けるのも特徴である。

―美の世界―
阿部平四郎(1929年3月10日生)さんは秋田県川連町(現湯沢市)の出身である。昭和22年横手工業高校を卒業後、高橋兵次郎氏について木地を学んだ。1950年から2年間転職後、独立して木地業を始めた。1958年頃から正式にこけし製作を開始した。

「平四郎こけしは木地山系川連こけしに属し、大きく分けて本型、泰一郎型、米吉型の3型があり、その中に形、模様、顔の異なる多種類の形がある。

本型は高橋兵次郎型を、1960年から小?泰一郎型を、1967年からは小?米吉型を復元、近年伝承形態より脱皮、平四郎米吉と呼ばれる世界を確立。躍動的な文様と静的な表情を1本の木人形に纏め上げ、円熟の境地に到達、川連の伝統こけし継承の第1人者として川連こけしの名を高めてきた。1981年よりは小?久太郎(1988年没)と並んで秋田県こけし展の無審査工人に称され数々の大賞を受賞している。

その特徴は、職人の生き様そのものが素直に作品に表現されていることにある。修練の賜物であるスピード感のある技法が、職人の息遣いとその背景にある多くの事物たちの息遣いを、見るものに伝える。

目新しさ、奇抜さを排除した作風は一見玄人好みとも言われる。しかしこけしの表情の奥底から滲み出る情愛は深く、草花の清楚な美しさのような世界は日本人の心の故里への導き手のようにも思われるのである。平四郎の、技と心が生み出した、静やかな美の世界。伝統こけしならずとも、美しい心を持つ作品は素晴らしい芸術として人々の中に生き続けるに違いない。」
(リーフレットより引用)

 ―幸せな師弟―

 木地山系のこけし工人、阿部木の実さんの師匠は父である阿部平四郎さんである。子供は親の背中を見て育つという話があるが、阿部平四郎さんはこけしの伝統を受け継ぐ後継者を立派に育てられていることは日本文化のためにも喜ばしいことだ。

 木の実さんは教員になろうとして宮城教育大学に進んだ。その時、銀座で父の個展を見て実家で目にしていたときは土産物としか映らなかった父親の伝統こけしが、他の美術品の中にあって全く見劣りしないことに震えるような感動を受けたのだという。1985年に大学を卒業すると同時に父の門下に入り、こけし工人としての道に入った。

 小さい頃、ろくろの傍に作ってもらったブランコに乗りながら、父がこけしを作るのを見て育った。そして今、父の隣でろくろを回しながら、物を生み出す喜びと苦しみ、父の人生について深く思いを共有、共感したいという。幸せな親子、師弟である。

 ―心の軌跡―
「東北の冬は長く、白と黒の支配する世界です。伝統的な制約の中で、こけしの花がこんなにも鮮やかなのは、また、その表情が命に満ち溢れているのは、冬を耐え抜く強さと、春という、世界を一変させる季節への憧れ。それらの季節は私たちの生活や精神の象徴です。こけしは人形でありながら、抽象性を持っています。立体と平面を合わせ持つ形、限られた色彩などによって、人間の本質を表現し得ていると思います。

 心を形に出来るなら、雪野のように平らかで、太陽のように丸く、凛と立つ木のように真っ直ぐな、そんな形でありたいと思う。けれども私の心はもっととげとげしく不確かです。

 こけしを作るとき、私の感情はこけしの中に吸収され、無心になる、平らかになる。このこけしたちは私の心の形です。しかしこけしはシンプルなものだから、隠しようもなく自分が出てしまいます。

 植物が適地に自生するように、こけしはその地その時代に、生まれるべくして生まれました。ゆえにその生には強さがあり、力があります。しかし時代は失われ、人々もまた過ぎていきました。失われたものを求め、伝統という、残された種をまくとき、こけしは時を越えて新たな実を結びます。
そこには確かに、今を生きる私がいるからです。

これらのこけしたちは"時代への憧憬"をめぐる、私の精神の軌跡です。」と木の実さんは語る。

 ―悟り―
その木の実さんを「技術は5年もあれば身につく。しかしそれでは作品とは言わない。作品というのはその上に人間性を乗せたものである。生きることへの真摯さと謙虚さはまだまだだが、捉え方や感覚的なものは、もう私を越えた。」と平四郎さんは目を細めてこけし工人としての姿勢を語ってくれた。そこには芸術人として到達した頂きと悟りを感じる。

名作は時がどんなに過ぎようとも色褪せることなく光るものであり、生きて語り継ぐ新しい命が宿っているというのが私の持論である。

日本人の美意識の中の情(感)が失われていく中で、阿部平四郎さんの世界には決して変わらぬ真実に触れるものがある。そんな作品に魂が癒されひきつけられる。

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