◇河正雄コレクタートーク◇

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河正雄コレクタートーク
               テーマ:崔承喜誕生100周年記念コレクタートーク
               場所:東京・韓国文化院
               日時:2011年10月28日

講師の紹介について
本日はお忙しい中、崔承喜(チェ・スンヒ)展の最後の関連イベントでありますコレクタートークにお越しくださいまして誠に有難うございます。私は司会を務めさせていただきます羅基台(ラ・ギデ)と申します。この崔承喜展を共催している在日韓人歴史資料館で研究員をしています。早速トークにはいります。まず、コレクターの河正雄(ハ・ジョンウン)先生について、ご存知の方もいらっしゃいますけれど簡単にご紹介させてください。

先生は1939年に東大阪市で生まれた在日二世です。戦前・戦後、秋田県で暮らしました。今、この会場におられる方の中には既にご存知と思いますが、河正雄先生は著名な美術コレクターでもあります。韓国に光州市立美術館がありますけれど、そこの名誉館長を務めていますが、光州市立美術館は3000余点の美術品を所蔵しています。そのうちの3分の2以上、2222点が河正雄先生が寄贈したものです。そればかりではなくて、韓国のソウルにあります国立古宮博物館、光州にある朝鮮大学校美術館、釜山市立美術館、全羅北道道立美術館、霊岩(ヨンアム)郡立河美術館、大田(テジョン)市立美術館、浦項(ポハン)市立美術館にも多くの美術品を寄贈しています。また、河正雄先生は日本で生まれ育って、特に、秋田県で長いあいだ暮らしたんですけれど、秋田県仙北市立角館平福記念美術館にも美術品を寄贈され、仙北市立田沢湖図書館には河正雄文庫があります。
それではトークを始めます。先生、どうぞよろしくお願いいたします。《拍手》

コレクターとは何ぞや
アンニョン・ハシムニカ?河正雄と申します。安寧でいらっしゃいましたでしょうか。韓国語で挨拶いたしました。いま、司会者から紹介がありました。これからのお話は司会者の話をなぞらえながら進めていきたいと思っております。
コレクターと紹介がありました。コレクターとは一体何ぞやということですね。広辞苑を読むと
美術品、骨董品を収集する人、こうなっていますね。はたして、河正雄が集めたものは美術品だったのでしょうか、骨董品だったのでしょうか。こういうことが命題になっていくと思われます。1時間半くらい時間をいただいております。1時間半ばかりでお話しするということはごく限られた話ししかできません。それほど話がありますが、絞ってですね、私に係わる美術、どうしてコレクターとして人生を歩んだのかと、お話をしなければいけないと思います。皆さんの中で、在日で美術品のコレクターだというと、一体どういう人物だろうかと、また、本国でも同じですが、中々こういう人いないそうですよ。だから、不思議がって、どういうコレクターなんだろうと、こう思う人が多いみたいですね。今日お集まりの皆さまも、そういう思いでお集まりになった方が多いのではないかと思います。そういう例があまりないからですね、そういう意味で稀な人間の一人になるんじゃないかと思います。

崔承喜展示会の共催について
崔承喜の展示会がこの度、韓国文化院および在日韓人歴史資料館との共催で開かれることになりました。この間、2週間にわたって多数の方に展示を見ていただきましたし、また関連イベントにも多数の方がお見えくださいました。本来ならば、今日、沢山の方が見えられて、展示をここまで引張ってきた、こういう機会をつくったコレクターの話を聴いてもらえれば、私としては本当に嬉しい、名誉なことだと思いますが、沢山のイベントがあった関係で分散されました。今日集まった方は大変、私の事業に対して、コレクターに対する思いの深い方がお集まりくださったと、だから、一番、私にシンパである方たちがお集まりくださったと、言い換えれば、非常に理解くださる、解ってくださる方だと思います。そういう意味で大変私は嬉しく思いますし、大変誇らしく思います。

崔承喜展示会の意義とは
この展示会に当たりまして韓国文化院が開くことは、最初は難しいのではないかと思いましたよ。崔承喜そのものが、政治的にもイベント的にも、また日韓の問題とか、また南北の問題とか、色々なことがありまして、政治的にも長い間タブー視され埋もれていたという方ですので、難しいのではないかと思いましたけど、いや違いました。韓国は完全に変わりましたね。「崔承喜展をやりたいと、河さんのコレクションを甘受するから、確保するから、韓国光州市から持ってきて展示会を開きたい」と申し出を受けました。本当に嬉しかったです。ああ、わが国も変わったと、日本で崔承喜の展示会を開けるなんて考えもしなかったです。国(韓国のこと)もそうですし、資料館もそうですが、日本の皆さんや在日の皆さんが崔承喜さんを忘れなかった、愛してくださったという、ひとつの結果が今度でました。そういう意味で、日本で展示会を開いたことを大変誇らしく思います。この100年、いろんなことがありましたね。写真展を通して過去に、歴史に何があったか、皆んな、この写真を通しながら、省察内省をして歴史をもう一回認識をして、我々がこれから先は過去のような、不幸な、悲劇的な時代ではない、新しい時代を、新しい関係を、日韓関係だけではありませんよ。南北の問題だけでもありません。そういう意味で大きな意義ある展示会になったのじゃないかと思います。若い方たち、知らない方が多いですよ。だけど、この展示会を通して、100年前にこういう方がいたのかと、もう眼がですね、瞳孔が開くくらいビックリし、感激というか、感動した方々が多いようです。今日、この席にも20代、30代の人たちが集まっております。そういう意味でも、これから先、崔承喜さんを顕彰する、崔承喜さんの名誉を回復しながら我々民族の資産を高めていく事業になるのではないかと大いに楽しみにしております。

コレクターのルーツについて
さて、大事なことをこれから話をしたいと思います。何故私がコレクターと呼ばれるようになったかということですね。自己紹介を兼ねながら致します。やはりルーツをお話しいないと理解されないのではないかと思います。先ほどお話がありましたけれど、1939年に東大阪市で生まれました。生れてまもなく秋田県の田沢湖、昔は生保内(おぼない)と言いました。生保内節で有名です。そこへ移住しました。父や母が田沢湖生保内での発電所工事の労働者として働くために、賃金稼ぎですね。秋田県に移住した訳です。私が生まれて間もない6カ月後に田沢湖に行ったわけです。生まれた年はどういう年かというと、太平洋戦争前、ヒットラーがハンガリーに侵攻して第2次世界戦争が起きましたね。在日朝鮮人、韓国人に対する創氏改名が法制的に施行された年でしたね。そうして日本の戦争政策のために、朝鮮半島や中国の方たちが徴用される集団募集が始まりました。2年後からは強制連行というか、強制徴用という形になってきましたけれども、私が生まれた年はそういう年でした。だから、とても戦争のキナ臭い、世界的に、日本や韓国だけの問題ではなく、暗い大変な時代に生まれたということですね。それが大きく、今日72歳になりましたが、72年間ズーッと背中に背負って引き摺って生きてまいりました。多分、死ぬ日まで引き摺って生きていくんじゃないかと思っております。それほど、自分が生まれた年というのは日韓の、世界の歴史の中で、平和ではなかった時代、戦争の時代に生れたということのこだわりですね。

秋田県生保内の環境について
先ほどの話に戻ります。田沢湖にいきました、親子で。段々と日本の戦争が厳しくなってきまして、中国から朝鮮から強制連行され日本に渡ってきました。特に秋田県は鉱山が多くありましたので、秋田県には徴用の方たちが多かったです。田沢湖周辺は水力発電所を作るために、私が住んでいた田沢湖周辺だけでも約2000名の方が徴用できたことを知っております。雪国ですね。寒いですね。食料も段々枯渇してきましたね。病気になったり、逃亡したり、そこで事故で亡くなる方もいらっしゃった。その中で無縁仏になった方がいらっしゃる。どうして、そういうことが分かったかというと、私は小学生のときに家の裏がお寺でお墓だったんです。秋夕(チェソッ)、韓国のお盆ですね、母親が無縁仏のところに供えていらっしゃいと、家で作った料理を供えにいきました。犠牲者の無縁のお墓でした。そういうことがありまして、私は長じまして、このお墓はそのままにしておけないと、無縁の人達を供養しなくてはならないと小さいときから考えておりました。だけど、具体的にどうすればよいのか分からない。子供のとき、そう思っただけですから。

絵描きさんになる状況ではなかった
私は小さいときから絵がとてもよく描けたといって誉められ、展覧会に出すと賞をいただいて大変自尊心を高めたものです。小さいとき田沢湖生保内で絵を習ったことがやはり原点なのですね。背景には、朝鮮の方々の強制連行のことなどありましたけれど、それは後で話を結び付けます。絵描きさんになるつもりはなかったんですよ。実は。家庭が貧しかったので、絵描きさんになる状況ではありませんでしたから。秋田工業高校へいきました。落合監督をご存知でしょう。落合監督は14歳下の母校の後輩です。誇り高いです(ハ、ハ、ハ)。就職が目的で秋田工業高校に入りましたが、何故か、私は卒業のときも就職できませんでした。秋田工業高校は100%就職ができる学校なんですが、何故なのか、河正雄だけはできませんでした。それで、しょうがなくて画家にでもなろうかと思ったんですが、母親は大反対しましてね。絵をかく奴は気の狂った奴だから止しなと、大反対くらいまして諦めました。
東京オリンピックが始まる1年前に結婚しました。満23歳です。そして、ご縁があって電気屋さんになりました。家庭電器を販売する業をおこしました。オリンピックの1年前です。カラーテレビが売れました。売れました。三種の神器(テレビ、冷蔵庫、洗濯機のこと)を、朝から晩まで電話が鳴りっぱなし、配達の仕事が一杯でした。そしてお金ができました。これが25歳のときです。

弥勒菩薩の絵との出会い
あるとき、新聞をみましたら新聞に広告がでてました。向井潤吉の絵が売りに出ているということで、向井潤吉の絵は今、世田谷美術館に沢山収蔵されていますよ。日本を代表する民家の画家です。民家の絵が欲しくて、ああ、秋田の故郷が懐かしい。秋田の故郷の絵がほしいというので、絵を買いにデパートにいきました。行ったら、向井潤吉の絵の隣に弥勒菩薩の絵がかかっていたんです。よく見たら、同胞が描いた、全和凰(チョン・ファファン)という須田国太郎の弟子が描いた絵でした。向井潤吉の絵を忘れてね、弥勒菩薩の絵を買いました。それからコレクターになりました。
そして、全和凰先生のアトリエを訪ねていきました。その日は大雨でした。全先生が日曜大工で建てたアトリエだったものですから家の中が水浸しでした。全和凰さんの絵をみました。在日の画家が描く絵は暗いですね。圧制を受けて差別をうけて苦しみ、魂の叫びを描いているような絵でした。それが皆水浸しでした。カビだらけでした。私はそれを見てね、この絵を守るのは誰なのかと考えました。これは歴史の中で描かれた在日の証拠、存在の作品ですね。よし、これは僕が守らなくてはならないと、そのとき使命感を感じました。そして、在日の同胞たちの絵をドンドン集めるようにいたしました。集めていたら人々が言った言葉が「こんな銭にもならない、ゴミみたいな、こんな暗い汚い絵を何処に飾るのだ」と。普通の家に飾れない。僕はお金のことを考えませんでした。だから「お前はおかしい。脳病院へ行け」と言われました。脳病院まで行きました。お医者さんに言いました。「皆がお前は可笑しいから脳病院へ行けと言われたので来ました」と言いました。そうしたら「可笑しいという人達をつれてきなさい」とお医者さんに言われました。それで、可笑しくないということがハッキリしたので、益々コレクションを始めました。

美術館を建てようという計画
それで、この集めた絵をどうするかと。田沢湖畔にそれらを収容して無縁の霊に奉げる、聖壇のような、お寺の本堂のような美術館を建てようと計画を立てました。田沢湖町は喜んでくれました。観光にも役立つ。私の志、思いは人間的である、ヒューマニズムが非常に美しいと言って大賛成してくれました。私は土地を買い、設計をしてドンドン話が進んでいきました。数年経って、途中で、田沢湖町は出来ないと言ってきました。理由はお金がない、学芸員がいないということでした。いや違う。私はそう思いませんでした。というのは、日韓会談を締結するときに慰安婦や挺身隊や強制連行で来た人たちの賠償、戦後処理問題の未解決が問題となり、韓国で政治問題になったんですね。日韓関係が怪しくなっちゃたんですね。大変だと思ったんでしょう。多分、田沢湖町では政治の問題に巻き込まれると困る。それで断ったんでしょう。そのように私は理解しています。巻き込まれたら大変ですよね、小さな田舎町ですから。

光州市立美術館からの誘い
そうこうしている間にコレクションの絵が沢山集まりましたね。韓国の光州市、皆さんご存知でしょう。80年代の韓国の歴史の中でも、人類の歴史の中でも、これほど不幸な事件はないんですよ。光州事件というのは。国民を守るのが軍隊なのに、生命と財産を守るのが軍隊なのに、軍隊が国民に銃を向けて国民を虐殺したんですよ。そういう事件が80年代におきたんですね。光州市、本当に不幸な歴史が韓国にありましたね。今は民主化されまして聖地が光州にできました。18年間の市民たちの戦いが実って、要するに、民主、人権を勝ち取ったというか、市民の側の手に戻したというか、歴史的な業績を挙げたのが光州の市民たちです。当時、韓国では美術館がソウルに国立が一つしかなかったんですよ。それが、光州市が始めて地方に美術館をつくったんです。私は美術館に行って見て驚きました。あまりの立派さに。その中に入ってみました。何も無いんです、中身が。作品が150点しか無いんですよ。美術館が殆どクローズ状態なんです。上物(うわもの)はできたけれど中身がない。これでは美術館ではないと。機能を果たしていないと。その時に光州市から「河さんが今迄集めた絵画を光州市に寄贈してもらえないか」と申入れがありました。日本側の田沢湖で断られたことを知った上でのことではないんですよ。一切関係ないんです。田沢湖で美術館をつくるのも、光州に寄贈して美術館に寄与するのも、20世紀の不幸な時代を共に生きた、場所は韓国と日本は違うけれども、我々が生きた地球は同じだと。光州事件の魂を癒すためにも、韓国の人々の心を癒すためにも、光州に作るのも、田沢湖に作るのも同じだと。共有できる宝物であると判断いたしまして、(美術品を)贈ることに、意義を認め判断をいたしました。1993年です。

各地に美術館が広がって
それから、もう今日まで約19年になりますね。それから韓国にドンドン美術館が出来てきました、地方に。だけど状況は各地同じです。中身がないんです。そこで、私はコツコツ、コツコツ25歳から集めた作品を、光州市立美術館には2222点寄贈しました。また、大田(テジョン)の市立美術館、それから、浦項(ポハン)の市立美術館、李明博大統領の故郷ですね。釜山(プサン)の市立美術館、光州の朝鮮大学校美術館、それから霊岩の、私の故郷の霊岩郡立河美術館、全羅北道(チョルラブット)道立美術館の7箇所ですね。他に、秋田県仙北市立角館平福記念美術館にお贈りしました。こうして河正雄コレクションは7000余点を寄贈することになりました。
何故、コレクションをこんなにあちこちに散らばしたのか。そういう質問を沢山受けました。本来、コレクションは一箇所に集まっているのが一番価値があるんですよね。散らばさない方がいいんです。だけど、私は散らばしてしまいました。日本は美術館、博物館の歴史は古いですよ。韓国はつい最近です、美術館や博物館ができるようになったのは。なんとか、日本並みに、西洋並みに、国際的に地位を上げて、少しでも高めようと熱い思いで散らばしました。キッと理解してもらえると思います、散らばした理由を。韓国の博物館・美術館は教育機関ですから。美術を通して、国民に教育をする場所ですから。そういう意味で全国の美術館に配置したことは良かったのではないかと私は思っています。本来ならば、田沢湖畔に、亡くなられた無縁の同胞たちを、不幸な方たちを慰霊する「祈りの美術館」とすることが目的だったのですが、韓国全土に、勿論、秋田県角館にも(河正雄コレクションを寄贈)しましたので、私の心は通じていくのではないかと思っております。

李方子妃殿下揮毫の行方
とても大事なことを言いたいと思います。李方子(リ・バンジャ)妃殿下をご存知ですよね。梨本宮様のお嬢様でした。韓国最後の皇太子様のお妃になられた方ですね。日韓の歴史の中で不幸な人生を歩んだ方ですね。李方子妃殿下は私に「田沢湖祈りの美術館」という揮毫をしてくださいました。その揮毫の看板は何処へいくのでしょうか。来年、美術館がもう一つできます。私の父母が生まれた故郷、韓国の南の方、全羅南道、霊岩郡立の河美術館です。もう99.9%まで出来上がりました。来年春にはオープンします。勿論、世界に発信します。メッセージを出します。何故、世界に出すか。私のコレクションは日本や在日のコレクションだけではないのです。とても大事なコレクションです。20世紀の戦争の時代、在日の人たちが描いた、日本の人が描いた、韓国の人が描いた、世界の人が描いた、そういう20世紀に描いた絵を多様に収集したんです。だから、世界の人達が共有するコレクションとしてメッセージを出すのです。私のお父さんお母さんが生まれた故郷、私は韓国で生まれた訳ではありませんね。生まれたくても生まれなかった。住みたくても住めなかった、生きたくても生けられなかった。日本で生まれて日本で育って、そして、お父さんお母さんの故郷に、お父さんお母さんたちが叶えられなかった夢を、私は韓国に橋を架けました。美術を通して、先祖の故郷に美術館を作ることによって日韓が近くなるように、また人々が美術を通して、不幸な戦争の時代を回顧する美術館を作り上げる、こうした大きな意味をもって作り上げました。霊岩で美術館の計画が出たのは6年前です。来年はいよいよオープンします。国費が出ました。霊岩郡の郡費が出ました。そして、全羅南道の道費が出ました。そうして出来上がりました。韓国民が作ったんです。在日同胞が集めた作品は韓国の宝だけではありませんよね。日本の宝だけでもない。皆、世界の宝ですね、これは。


崔承喜展示会の写真について
ここで本題に入りお話します。崔承喜の展示会に展示した、この写真ですね、何の価値があると思いますか。私がこの写真のフィルム、35ミリです。もう60、70、80年前のフィルムですから酸化しちゃって、もうボロボロ。約350点くらい収集しました。だけど、使えるものは200点もありませんでした。印画として使えるのはありませんでした。かろうじて150点ほど、作品として作りました。2年かかりました。今回展示してあるのは50点です。あと100点は光州市立美術館にあります。皆さんに皆お見せできないのは残念です。それは壮観ですよ。全部飾ったら大変な世界(になります)。
最初、私は光州市立美術館にフィルムをもっていって「これは我々の人類の遺産であるから、記憶遺産であるから。大事な人類の資料であるから作品化したい」(と申しました)。「いや、そんなものは美術品じゃないし、何の価値もないし、ゴミだから受取れない」と言われましたよ。三回説得し闘いました。とうとう、私の言うことが通って作品にしました。これは大変なこと(ですよ)。誰も価値を認めなかったんだけれど、価値が分かったです。展示会をしてみて分かったんです。韓国で大変な話題になりました。10年前、光州市立美術館で生誕90周年を記念して、崔承喜展をその作品をもとにして開きました。何と言われましたか。「これは我々の宝だ」と言いましたよ。これは誇り高い、これほど名誉ある、記憶を新しく喚起させる、次の時代を見詰めることができる作品であると。そこに何のお金の価値がありましたか。お金の価値なんか無いんですね。だけども、歴史的価値を認めた。大変ですね。私が京都で全和凰の、水に晒された作品を見たとき、これは守らなくてはならないと言ったこと、今、崔承喜を守らなくてはならないことの意味が。皆、価値が分かってきたんですね。
最近、5月でしたか、筑豊の、九州の田川市ですか、山本作兵衛という炭鉱夫の描いた絵ですね、これがユネスコの記憶遺産に登録されました。同じく、光州の5・18事件、先ほど言いましたね。これが記憶遺産に登録されました。河正雄のコレクションはそういう記憶遺産類に入る記憶遺産なんです。勿論、美術品としても高く評価され、年度が経てば経つほど、益々記憶遺産の価値は高まることでしょう。在日が描いた絵、日本の方が描いた絵、世界の人が描いた絵、この20世紀に記された作品は美術品としての価値もありますけれど、人類の記録遺産としても立派な価値のあるものであるといえます。

再び、崔承喜の生誕100周年について
時間がそんなに無いんですよね。話したいことは山ほどあるんですがね。崔承喜の話にしましょう。今年、崔承喜の生誕100周年というので、韓国側が光州市立美術館で河正雄コレクション崔承喜展を5月に開きましたね。8月の半ばまで開きました。その前に、ここで(韓国文化院)、2、3日前に公演をしました鄭明子(チョン・ミョンジャ)さんという在日の舞踊家ですが、崔承喜の100周年を記念して3月に韓国の国楽院で舞を舞いました。また、来月の18日にはですね、韓国・舞(チュン)批評家協会がありますね。舞踊家にとっては権威のある舞評論家協会が100周年を記念して大々的なイベントを開きます。年末には(崔承喜の)生誕が12月24日ですから、それに合わせ(韓国の)国立劇場でも今、計画が進行中です。在日では、いま、この韓国文化院でこうして(崔承喜の)生誕100周年の展覧会をしました。在日同胞の任秋子(イン・チュジャ)さんという方、崔承喜の踊りを引継いでいこうと方がいらっしゃいまして、12月5日に記念公演があると思います。また、朝鮮大学校ですね、小平(市)にある。11月5日と6日に二日間(崔承喜生誕100周年イベントが)開かれるという情報が入っております。中国でもそういう計画がありまして、記念行事が各地で大々的に企画されております。それから、フランスでも崔承喜の再評価をする本が出たり、論文が出たりしておると聞きました。


石井漠と崔承喜との係わり
石井漠(いしい・ばく)が崔承喜の先生ですね。石井漠といえば、神様です、日本のね。近代舞踊の、舞踊バレーの天皇様ですよね。崔承喜が北(朝鮮)で消息が無くなってしましてね、どうなってるんだと、石井漠さんが心配しているところへ、中国の崔承喜のお弟子さんたちが石井漠さんを招待したんです。1956年度の話です。そして、中国へ行ったら歓迎されたんだそうです。勿論、崔承喜の先生だから歓迎されたんですが、石井漠いわく、先生いわく、「私はもう先生じゃない」と。中国のお弟子さんが崔承喜を慕って、崔承喜をこんなに愛して尊敬していることを知った。中国の舞踊家たちはこれほど私を歓迎してくれることに感激し、そのときの文書があるんですよ。石井漠が1957年の文芸新潮の1月号に「崔承喜の人気」というのを書いているんです。文書の中に「先生と言われるほどの馬鹿でなし」この言葉から始まっている文章なのですが、一番最後に述べた言葉が「朝鮮にいる間にも私の直接の弟子や孫たちの大勢に取り囲まれていたが、大陸に来ると崔承喜が大陸の舞踊界に与えた業績は非常に立派なもので、私などはもう崔承喜あっての石井漠であって、石井漠が崔承喜の先生であるなどということは全く小さな問題であることを付記しておく」と書いているんです。石井漠先生も立派ですよね、本当に。先生を追い越して、それこそ先生に孝行したというか、先生の恩に報いた、これが崔承喜ですね。勿論、日本での評判は皆さんご存知でしょう。あまりにも有名ですよね。

自尊心を高めてくれた崔承喜
私は北川民治(きたがわ・たみじ)の絵がとても好きでね、そしてシケイロスの絵が見たいと思って、20数年前メキシコへ行きました。、メキシコの国立芸術院にシケイロスの絵があるというので見に行って、そのとき案内してくれた学芸員が「河さん、メキシコの国立芸術院の、このホールで3500人の観衆の前で崔承喜が踊ったんです。素晴しかったですよ」とその学芸員が言った。ビックリしましたよ。メキシコ人が忘れていないんですよ。それが、日本人が忘れていいでしょうか。韓国人が忘れていいでしょうか。忘れられない人です。世界の人が忘れていないんですから。それほどの人物だったんですね。私は小さいときに、「おめえんとこの崔承喜という人は凄い立派な芸術家、素晴しいダンサーだ」といって、私の小学校のとき、先生がいつも崔承喜を褒め称えてくれました。また、秋田市の市長であった武塙祐吉(たけはな・ゆうきち)という先生がいます。今はもう亡くなっていませんけれど。木内百貨店の女社長さんも「おめえんとこの崔承喜という人は素晴しい踊り手だった」と、秋田での公演を見た感動をいつも語ってくれました。小学時代から高校を卒業するまで聞かされ、これほど自尊心を高め、名誉を高め、私という人間を育成してくれた人はいませんでしたね。誇りでした、本当に。今も誇りです。

崔承喜研究について
この人(崔承喜)は、韓国では1986年度から北(朝鮮)へ越北した文化人とかが解放されまして、こうして研究も出来るようになりました。また、北(朝鮮)では2002年でしたか、2003年になりますか、崔承喜の消息として初めて愛国烈士の廟に奉ったといって世界に報道がでましたね。今、平壌に奉られています。だけども、崔承喜が辿った道は、皆さん、カタログを見ても、伝説の人とか、悲劇の人とかあるように、非常に謎に包まれている。非常に悲劇的でもあるし、伝説的でもある。これから研究が進んでいくだろうと思います。今回のこの展示会、そして光州に始まった展示会により、今まではタブーですから表に出せなかったんですが、研究成果もこれから沢山出てくるだろうと思います。崔承喜の遺品とかですね、遺品があるかどうか分かりませんけどね。映像とか、資料とか、沢山出てくるじゃないかと思われます。そういう意味で、私も今まで随分集めましたけれど、これで完全という訳ではありませんね。まだまだ、埋もれているというか、隠れているものが沢山あると思います。そういうものが、これから出てくるんじゃないかと思います。私も年ですから、何時までも、この集めた資料をそのまま持ってる訳にはいきませんので、崔承喜さんが卒業した学校、淑明(しゅくめい)女学校、今は女子大学になっていますね。この中に崔承喜を研究する機関、韓国の女性を代表する歴史的な人物を掘り起こす、顕彰する団体がありまして研究が始まっております。沢山の研究が、色んな角度でおこると思います。だから、謎とか伝説というのはなくなって、真実がこれから明らかにされていくことが、大いにあるのじゃなかろうかと思います。

崔承喜研究家である白洪天さんの解説
今日、この席に崔承喜さんの踊りを、在日を代表して顕彰している、崔承喜さんの踊りの正統性を後世に伝えていこうと、在日の舞踊家である、また韓国でも著名な白洪天(ペク・ホンチョン)氏がいらっしゃるんです。何処にいらっしゃるのか。あ、いらっしゃる。
《拍手》チョット一言、私で足りない所を少し追加してお話いただきたいなと思います。
《白洪天さんの話》
本当に私の出る場ではないのですけれど、僭越ながら、河正雄先生が一言、言えというので、しゃべらせていただきます。私も朝鮮・韓国のことを、チョッと若くみえるようですが、もう身体が動かないような歳になって65才になりました。崔承喜の研究を5歳から始めてから約60年近く崔承喜の踊りをズーッと研究して、原型を守って今日になります。勿論、それに至る間には、いろんな創作をしたり実演したり、韓国でも今年(崔承喜)100周年ということで、各舞踊団、公立の舞踊団とか、私立の舞踊団とか、6月、7月、4月、また10月といろんな舞踊団が崔承喜の踊りを是非教えてくれということで、3年ほど前から韓国へ行って教えてきたんです。それで、河正雄先生とは年代的にはハッキリしませんが、大体12年ほど前、河正雄さんという方を知り合ったんです。そのときに、うちの娘が白香珠(ベッ・ヒャンジュ)と申しまして、もうお母さんになりましたが、その時代、崔承喜の再来じゃないかということで、韓国中、世界中で舞台に出まして、ヨーロッパから、中国から韓国で踊ったんですけれど、その時に、河正雄先生と知り合ったんです。

白洪天さんのルーツ
私は小学校は高崎市立東小学校なんですけれど、中学校からは民族学校、僕たちの時代には民団系の学校がなかったので、民族教育ということで朝鮮総連系列の学校を出ましたけれど、その時から崔承喜のことを知るのですが、私の母さんが今年、87歳になります。22歳のときに崔承喜が踊りに福島の方へ来ました。福島県といっても会津の方から福島市に、地方公演の崔承喜の踊りを一晩かけて見に行ったそうです。そして凄く感動して、印象を持ったんですけれど、誰か知らなかったので次の日の朝、本で見たら写真にも出てますけれど、大きい帽子で、その時、皆、女性の方たちは、日本の方たちはモンペの姿ですよね、崔承喜さんだけは大きい帽子をつけてモダンなドレスで、本を見て一目で分かったということです。「お前も男だけれど、舞踊家になるんだったら崔承喜のような舞踊家になれ」と言われて、私は踊りを始めたんですけれど。その後、崔承喜先生の資料というのは1930年代から1945年、1946年代まで、日本の植民地時代に日本とかヨーロッパで活躍した資料とか写真はいろいろあるんですけれども、1946年の4月に北(朝鮮)に行ってからの消息とか、いろいろな活動歴とかは、ある程度分かるんですけれど、具体的には無いんですよね。それで、1946〜47年度から崔承喜さんが亡くなったという1969年の、だから1968年度くらいまでのいろんな新聞、雑誌を、写真とか、新聞記事を全部探して、ズーッと置いておいたんですよ。うちの宝だと思って。これを欲しがる評論家たちが韓国にも沢山いるんですね。苦労も知らないで、タダで、人の褌で(相撲を)とろうという方が多かったものですから、あまり信用しなくて。それで、崔承喜の展示がありますけれど、崔承喜の踊りとか、フィルムとか殆ど僕は持っているんですよ。ここから、何処かのページ挿入に1カット、1カットを少しずつさしあげたりして、新聞の切抜きをさしあげたりして、結局、全部の記事は出さなかったですね。私がお金には執着を見せないものだから。

崔承喜資料の収集について
ある日突然、河正雄先生から何回か電話があって、河正雄先生宅で16時間くらい話しました。2〜3時間のつもりが16時間も話していて、朝来て夜夜中の12時くらいまで。そのときに、河正雄先生の方から白洪天が持っている「資料を是非、寄託してくれ、共同で研究機関に寄贈し公開しないか」とおっしゃったので、それで、私が約50年以上集めてきた新聞記事だとか、いろんな写真、映像物とか、出版図書をさしあげて、皆の役にたてば良いなと。崔承喜といえば朝鮮・韓国関係なく、民族の誇りだし、さっき(河正雄)先生も言いましたけれども、昨年フランスに行ってきましたけれども、フランスでも崔承喜100周年だということでものすごく評価しているんですよね。それとは別に、在日でも河正雄先生のようなコレクションが無かったら、また崔承喜100周年記念の催しをやらなかったら、皆、心にはあっても隠れ蓑を着ている人もいるし、こういう日本の状況だから、いろんな方もいるし、韓国でも公演やったら、数回公演をやったんですよ。ある有名な舞踊団では新聞に出てしまったんです、記事が。崔承喜100周年公演をやるといったら。もう次の日、皆、看板持って「崔承喜、親日派・崔承喜出て行け、公演中止」。ロビーまでずーと右翼が並んだんですよ。他の舞踊団は崔承喜の名前を一切出さないで公演をしますと言って。見たら崔承喜の踊りだけれど新聞記事には出なかったですね。マスコミに出なかったですね。マスコミに出た舞踊家にはズーッと。だから、未だ韓国では崔承喜は親日派だとか、親日派ではないとか、親日で生きてきたけれど違うとか、まだ、崔承喜の名誉回復が完全にされない部分もあるし、北朝鮮の、朝鮮(民主主義)人民共和国の平壌(ピョンヤン)の方でも、今年11月小規模ですけれど行事があります。

崔承喜さんの名誉回復
でも(崔承喜が)名誉回復されて、河正雄先生がおっしゃいましたけれど、2003年度に、2月に愛国烈士を奉るお墓があるんですよ。そこに崔承喜さんが安置されているんです。そこに私も行ってきました。許可もとってお墓を介して写真も撮って、亡くなった(崔承喜)先生も一生、良かったのか悪かったのか、それは社会が判断すると思うんですけれど。それは北朝鮮でも伝統を少しやろうといって言ってますけどもね。まだまだ、北(朝鮮)でも、(崔承喜の名誉)回復とはいっても完全な回復はされていないんですよ。税関の問題もあるし、ご主人の問題もあるし。そういう複雑な中で、このような崔承喜の展示を今日やったことは勇気のあることであるし、河正雄先生しかできないものだなと思って、それに対して、私も賛同しますし、今日、ここにいらしゃった方々にも有難いなと思って、まだまだ言い足りないこともありますけれど、取敢えず資料を3年くらいかけて資料をまとめていますが、ダンボールに13個あるんですよね。全部開梱して、河正雄先生にさしあげて、河正雄先生が今、整理しているんですよ。これからも良いことがあると思って、期待して待っててください。どうも長くなりました。《拍手》

記憶遺産としての崔承喜資料
有難うございました。これから不自由なく研究するに当たっては膨大な資料が必要だと思います。崔承喜さんの母校である淑明女子大学校には、社団法人:舞踊家崔承喜記念事業団がありまして、もうひとつは韓国女性開発院、韓国の歴史上の女性の人物を顕彰する開発院、これは政府の企画院だと思います。それから、アジア女性研究所があります。ここへ私が集めた資料、白洪天さんが収集してくれた資料を提供してですね、研究を進めていただくことで、これが起爆剤になって世界から埋れた資料が集まってくると思います。日本でも資料を集められている方がいます。私の周りでもいます。そういう方たちの資料を基礎にして、人類の遺産として、記憶遺産として研究が進み、過去の歴史の、不幸な伝説の人物で、悲劇の人物じゃない人物として顕彰する。そして、私たちが誇りと自負心をもつ、自尊心を高めてくれる、こういう先祖、先輩を顕彰することは私たちに残されたひとつの勤めじゃないかと思います。そういう意味で、皆様方からいろいろご協力もいただいて、ご支援もいただきたいと思います。この研究が進みますと、(崔承喜生誕)100周年だけではありません。作品がありますから。光州市立美術館では110周年、いや105周年、崔承喜の何か目出度いことがあったら、世界中から作品を貸してくれと言ってくるだろうと思います。ですから、この事業はこれからも続いていくし、続かなければならないと思います。ということは、永遠に忘れられないワールド・プリマドンナとして、崔承喜は我々の心に宿り生きていくんじゃないかと思います。

王仁博士のこと
時間がもう20分許されています。崔承喜とは関係ないんですが、大事な話をしたいんです。霊岩郡に私の名前をつけた河美術館ができる。在日の人の名をつけ、本国の費用をつかって美術館ができるというこうことは日本でも韓国でもありません。在日が描いた絵、先輩たちが描いた絵ですね。大きな宝であることをは韓国でも認められたということですね。その場所ですが霊岩という場所はどういう場所か。王仁(ワニ)博士って、ご存知でしょうか。韓国語ではワイン・バクサといいます。戦前、教育を受けられた方は王仁博士を知らない方はいないはずです。教育を受けているはずですから。戦後の方は教育を受けないので王仁博士を知らないかも。この方は15代応神(おうじん)天皇の招請を受けて、日本には未だ漢字、文字が無かった時代です。千字文という漢字を持ってきました。日本では、律令、要するに、法律というんでしょうか、そういうものが無かった時代ですから。儒教である論語ですね。論語を持って日本に渡ってきたんです。大体、4世紀末頃の時代の話です。王仁博士が生まれた所が霊岩なんです。だから、河正雄はその時代から約1500年あとに生まれた、王仁博士が日本に渡ってきた渡来人の第1号とすると、私はニュー・カマーなんですね。最近、日本に渡ってきたことになりますね。私の父母の故郷・霊岩に日本との文化の架け橋をした素晴しい偉人がいる、王仁博士という方が私の故郷の人である。誇り、自尊心を高めてくれた方ですね。ですから、河正雄を作ってくれた人になると思います。崔承喜さんもそういう人ですね。育んでくれたと思います。王仁博士も尊敬して止まない、愛して止まない、こんな有難い先人を私は忘れることができません。いよいよ王仁博士の故郷である霊岩に来年、河正雄を記念する河美術館が出来上がります。
皆さん、来年、是非、霊岩、王仁博士の故郷に、日本との文化の橋渡しをしてくれた王仁博士の遺徳を偲んで日韓の友好の絆を連綿と1600年前からつないでくれた王仁博士に感謝の気持ちをもって、王仁博士の故郷を訪ねてください。そして、河正雄の河美術館の作品を見ていただくことを心よりお願いをしたいと思います。

浅川巧・伯教兄弟のこと
また、もう一人。崔承喜さんの時代。崔承喜さんは生誕100年ですよね。同じ時期です。生誕120年という日本の方がいらっしゃいました。浅川巧(あさかわ・たくみ)・伯教(のりたか)という兄弟で山梨県北杜市高根町の出身の方です。秋田県の大館営林署にも勤めたことのある浅川巧。そして、韓国ソウルに行って韓国の山林に適した種苗開発(をおこなって)、白磁・青磁の廃れたものを研究をする、調査をして甦らせる。また日本の民芸運動に大きな影響を与えた淺川兄弟。弟の巧さんは韓国で亡くなりました。韓国の人々は今でもお墓を守って顕彰をしております。ソウルの墓地は韓国の人たちが守っておりますし、お墓参りを沢山しています。浅川巧さんについては日韓の中学生の教科書に出ている人物です。日韓の教科書に出ている人物は彼しかおりません。韓国の人が日本人のお墓を守っている人はおりません。浅川巧という人を顕彰する、浅川巧120周年、崔承喜さんは20年後に生まれただけで同じ時代に生きた人です。浅川巧を顕彰する映画、表題を「道・白磁の人」という映画を製作しております。日韓共同で、両国で映像をロードショーいたします。その映画のデモストレーション第1号を3分くらいですけれども皆さんに見ていただいて、日韓の間でこんな素晴しい映画が今、作られることを是非知ってもらいたい。皆さんにチラシをお配りました。多くの日本の皆さんに知らしめて、日韓で来年はこの映画を友好の絆にしたい。この映画でですね、皆さんにも共に立上がっていただきたいと思っています。映像、お願いできますか。OKですか。多くの方は未だ見ていません。皆さんにスペシャルになると思います。
《デモストレーション上映開始》〜有難うございました《拍手》
本当に第1号の映像です。今年年末までには、第ゼロ回の関係者だけの試写会をやろうと思います。
また、山梨県やこのホール(韓国文化院)でも、是非試写会をして多くの日本の皆様や在日の同胞たちに、この映画を広めていきたいと思ってます。何故紹介したかというと、同じ時代、同じ歴史の中に生きた人たちの群像、同じ年代を回顧する。何も崔承喜だけではありません。浅川巧先生も、やはり同じ歴史の中で生きて克服してきたんですね。こういう人を忘れてはならない。キチッと顕彰しなければならない。こんな大きな目的がございます。

「田沢湖祈りの美術館」という揮毫の行方
もうひとつ大事な話を紹介したいと思います。あと10分ございますので。先に李方子妃殿下のお話をしましたね。私に「田沢湖祈りの美術館」という看板の揮毫をしてくださいました。この看板は何処に行くのでしょうかと、さっき言いましたね。霊岩の河美術館に行きます。玄関に飾ることになっています。何故、霊岩か。何故、霊岩に行くことになったのか。田沢湖で出来なかったからです。本当は田沢湖でやりたかったんです。パっと飾りたかった。李方子妃殿下は私に(看板を)揮毫してくださったんですが出来ませんでした。私はメッセージを発します。「田沢湖祈りの美術館」「霊岩郡立河美術館」この看板を一つに繋げるのです。この美術館は日韓の歴史の象徴でもあるし過去の歴史をも象徴している。内省をして、回顧をする美術館。これを世界が、人類が皆する、20世紀を象徴する河美術館は人類のための美術館になると、そういう大きな美術館になりえると私は思っています。また、そうなるように美術館の運営をしますし、世界にメッセージを出すことにします。

李方子妃殿下の遺品は古宮博物館へ
それで、李方子妃殿下のことです。実は、2008年、私に李方子妃殿下の遺品、写真、手帳、葉書などなど約700点近くコレクションしました。私に託した人がいたんです。河さんならば、きっと李方子妃殿下の日記や遺品をキチッと守り顕彰してもらえるだろうということで私に託されました。その遺品をこの韓国文化院を通しまして、韓国文化財庁に寄贈しました。文化財庁の下部組織であるソウルの光化門(カンファモン)の正面向かって左側のところに古宮博物館があります。そこは朝鮮王朝に関わる歴史的遺品などを収蔵し展示する博物館ですね。古宮博物館に遺品は収蔵されました。3年前寄贈したのです。李方子妃殿下の遺品ですね。これ11月21日午後4時、古宮博物館で遺品展の開幕となります。これは今まで李妃殿下が生きた時代と皆ダブルんですよ。そして崔承喜の時代もね、河正雄もダブルんですよ。同じ時代に生きてきましたから。ここにいらっしゃる皆さんも同じ時代に生きてきた人たちです。歴史を共有、共感する世界がそこにありますね。遺品展が開かれます。約2か月くらい開かれる予定になっています。是非、李方子妃殿下の遺品展を見て共感いただきたい。私が李方子妃殿下から揮毫をしてもらった「田沢湖祈りの美術館」、祈り、耐え難くもっている祈りの意味は何でしょうか。平和だと思いますよね。友好だと思いますよね。仲良くして、親善をして、そして、良い関係、隣同士の関係や民族の関係が良くなりますように。皆、そういう祈りをしていると思いますね。それが河美術館、「祈りの美術館」なのです。だから、河美術館は特別、お金の価値のある絵とかね、印象派が描いた絵とかがある美術館ではありません。私が集めるとき、皆、ゴミだと言った。公害廃棄物と言ったんですが、違いますよ。歴史を共有する基本的な祈り、河正雄が収集した美術品、それから李方子妃殿下の遺品全てが20世紀の不幸な時代の歴史的記憶遺産なのです。

河正雄美術品の価値について
これから皆さんはその意味が分かってくるんです。実物を見たから、写真を見たから具体的に分かると思いますね。写真を見る前はフィルムでした。だから、作品という形になったことで分かりますね。李方子妃殿下の遺品も、展示された現場で見れば、これが記憶遺産として、歴史遺産として、とても良いものであると分かる。河美術館も全く同じです。私は美術品を見れば分かるんです。崔承喜の写真も作品化にしたから、皆さんは写真を見て、崔承喜の眼と眼を見て、心を通わせるから共感するんです。感動するんです。とても100年前の人と誰も思われないでしょう。今、生きている人のようでしょう。美術品も同じです。これから、こういう物が大事であるということが分かってくるんです。そうした物がお金の価値が無ければ、大したものじゃないというんじゃないんです。次の時代に託していける、次の人たちに教育をしていく、忘れちゃならない、失っちゃならない、可能性を失っちゃならない物を皆、甦らせてきました。皆ね。皆、自尊心を高めてくれましたね。素晴しい先輩たちを忘れちゃならない、有難い、感謝をしなければならない偉人であると私は思っています。李方子妃殿下の遺品に関することも、日韓で国際セミナーとか、学術とか話合ってほしいと、寄贈する条件として申し上げました。だから、今度の展示会を通しながら、国際セミナーも開かれることでしょうし、学術の成果も、皆様方に大きくご披露できる時代が来ると思います。崔承喜先生も全く同じです。これから、皆さまと共有する、祖先を共有することがこれから起きてくると思います。河正雄のコレクションである美術品も、これから価値がどの辺にあるものかということも次第に分かってきます。

李禹煥先生のこと
一つ、私は自慢したいんです。美術品の国際オークションがクリスチーヌとか、ザザビーとか、ニューヨークやロンドンで開かれますよね。私のコレクションの中で、李禹煥(イ・ウハン)という現代美術家がおります。世界で活躍している人ですけれども、韓国の近代美術家の中でも、よく知られている、日本の「もの派」というのは大変有名です。この「もの派」の美術運動をされた先生です。今から30年以上前です。李禹煥先生が「みずゑ」という本、今は美術手帖しか出ていませんね。「みずゑ」という本に李禹煥先生の特集が出たんです。未だ、当時、李禹煥先生は無名でした。だから、李禹煥先生が存在を得るため発表された。私は書店で本を見てですね、私は今迄、今世紀でこのような絵は見たことがなかったものだから、これは凄いという閃きがありましてね。この本を全部買い上げました。そして、私の周りの美術館や美術人たちに、こういう新しい美術作品を発表した人がいると言って配りました。そうして2〜3年経って、李禹煥先生から電話がありました。「河さん、本が欲しいんだけれどね、あなたが皆買ってしまったので、私は1冊もない。私に譲ってくれ」というもんで、20冊差上げました。その2年後くらいに、美術の国際会議が東京でありました。(美術家たちが)世界から来ました。その席で李禹煥先生と初めて会いました。それまで本だけで李禹煥先生の美術の世界を理解していたんですね。

コレクションの価値について
4年後に初めて出会ったときに、先生が「河さん、チョット頼みがある。相談に乗ってくれないか」と言いました。「実はヨーロッパで、フランスとかドイツ、オーストリアに進出して、私の美術を広めたい。展覧会がしたい。だけど、お金がない」と。「分かりました。私がその費用を出しますから、その費用の分だけ作品をください」といって、作品をそのとき13点いただきました。その作品を代金と引換えにしました。今、李禹煥の作品はザザビーとか、クリスチーヌとか、国際の競売ですね、作品のサイズといえば、1号といえば絵葉書の大きさですね。100号はその100倍ですね、この100号の絵が2億6千万円ですよ。一枚の落札価格が。李禹煥は国際的な評価を得ました。そして、今はニューヨークの有名な美術館ですけれども、グッゲンハイムでワンマンショーをしてます。ここでは世界で超一流の芸術家でなければ出来ません。今やっております。そこを飾りました。河さんのコレクションはゴミだといって非難した人がいましたが、後にお金になりましたが、違うんです、お金じゃないんです。1枚が2億6千万円になったから、有名だから言うんじゃないんですよ。本当に大事なことはお金の価値じゃない。勿論、お金で価値を図る人はいるでしょうけれど。違います。河正雄コレクションはそういう性格を持っているんですよ。お金の価値でコレクターの価値が決まるものではありませんよ。そういう意味で物の価値観を見るときに大きな視野というか、何が次の我々の時代に、未来に必要なのか、大事なのか、今は大きな宝物。河正雄がやった仕事、崔承喜コレクションも同じですよね。コレクションの価値をコレクター河正雄は一生追い求めてきた意味が分かってくださると思います。
一言でまとめると、20世紀の時代、世界中が戦争の時代だったんですから、日本人だけが不幸があった訳ではない、韓国人だって、世界中が、人類が皆不幸だった時代ですから。その時代の美術を通して、資料を通して歴史を解明する、省察をする、内省をする。この大事な美術品をどう活用するかという。次代の子供たちの教育をすること、河正雄の美術館で、河正雄コレクションで学ぶことで繰り広げられていく。それが狙い、私の目的でコレクションを始めたのです。そして、過去の歴史の中で、不幸になって虐げられて、差別をされた、そうして人たちの心の平和、癒しをしていかなければならない。河正雄コレクションはそういう人たちへの慰霊、心の安らぎになると私は確信をしております。

田内千鶴子さんのこと
ともあれ、長々とお話をさせていただきました。まとまりがないですけれど。私は絵を描きますので、絵の話になると明日の朝まで続きます。いろんな色をもってきて、いろんな色を塗って皆さんにお話をしました。こうして一時間半にわたって話した河正雄が描いた絵は何なのか、河正雄が今日お話したことは、コレクターの内面精神、世界の心を描いてお話しました。皆さんに河正雄の絵を記憶していただければ幸いです。王仁博士の故郷である霊岩ですね。ここは良いところですよ。霊岩の隣町に木浦(モッポ)という町があるんです。戦前は港町で、韓国人はそこから日本に渡ってきたんですよ。釜山からも渡ってきましたけれどもね。
その木浦に田内千鶴子(たうち・ちづこ)さんという方がいました。6000人以上の、朝鮮戦争で孤児になった人たちを育ててくれ、社会人にして世に送り出してくれた日本人の女性がいました。この方も来年は生誕100年なんですよ。私が尊敬してきた人なんです。社会福祉で立派な業績を挙げた方です。来年は(生誕)100周年を記念して、日本からチャーター機が飛びます。約5000人(が参加して)田内千鶴子の生誕100周年をお祝いする行事に参加します。来年の10月です。来年の4月には河正雄の美術館が開幕します。隣町ですので、田内千鶴子さんの生誕を祝いながら、河正雄の河美術館を見学して下さることを祈念します。そのとき、皆さん方を心より歓迎したいと思います。来年は淺川巧の有意義な映画もあるでしょ。楽しみにしてください。日韓の心を一つにする場が開かれます。是非、ご健康で、来年が素晴しい年になりますように祈念しまして、一人しかいない河正雄というコレクターの話を終わらしていただきます。大変、ご静聴いただきまして有難うございました。
《拍手》


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