◇阪神大震災の報に接す◇

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故郷での碑石建立をやり終え、成田に着いたその足で秋田の十文字町へ。この地で開かれる映画祭の韓国映画特集のゲストとして映画「風の丘を越えてー西便制(ソピョンジェ)ー」の撮影監督鄭一成氏と共に参加するためである。 最近ではめずらしいほどの大雪、厳しい風雪であったが、秋田らしく思ったのは、旅人の感傷的な旅情であるから勝手なものだ。
夜の懇親会での俳優永島敏行君との出会いは、私にとって印象的で縁深いものとなった。
ホテルでの翌早朝、関西神戸大地震の一報が入った。
同室の友人、アジア映画社の朴炳陽君が青ざめた表情で「西宮の家にすぐ帰らねば」と吐いた。私は彼の家族が無事であるように祈りながら、小安峡で別れた。翌日事態が深刻なものとなることを予測出来ず、あまりに簡単に彼と別れた。
 私は、鄭先生とわらび座を訪問したが、道中そしてわらび座のホテルで、しきりに彼のことを心配し、多くの被害者の発表に涙して、しばらく部屋から出てこられなかった。
翌日私は、盛岡駅で鄭先生と別れ、八戸の叔父を訪問した。昨年末の「三陸はるか沖大地震」のため、叔父の店がテレビや新聞の第一面で報道されるような大被害を受け、死傷者まで出たからだ。無残であった。痛ましいほど、自然の威力の前には無力であった。地震国の宿命といえばそれまでであるが、八戸の災害を目のあたりにして、現実感を伴って朴君のことがしきりに気にかかり始めた。幾度となく電話を入れたが不通。何日も続いた不通。数日して韓国文化院の鄭鎮永文化官から電話があった。それは、彼と別れる時から一番気にしていた最悪の報せであった。最愛の息子が倒壊した家屋で亡くなられたというのだ。心臓が氷り止まる思い。
 地震発生の前日のことだ。何気なく呟くように、彼は息子との父子の情愛の様子を静かに語った。秋田の地でしきりに一人息子のことを思いやっていた。 いろいろ問題があったが、親子の恨を乗り越えた世界を幸せそうに語ったのだ。このように息子について初めて語る彼を見て、人の親として私の胸もあたたまった。その日の秋田の雪は、一日中降りやまず、激しく降り積った。

わらび座での雪の一夜、私と鄭先生は、彼のことを思いつづけて、まんじりともせず朝を迎えた。合掌。

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