◇日韓文化交流の行く手◇

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私は小学生時代からわらび座の舞台になれ親しんだ。もう四十五年近くにもなる。
いつの日にかわが祖国韓国でわらび座の公演を実現してみたいという夢とロマンを抱きつ
づけてきた。きっと韓国の人々も私がもったと同じ感動をもって受けとめてくれるにちが
いないという信念があったからだ。
 五年前に、わらび座民族芸術研究所の茶谷十六先生と出会ったご縁から、何気なく私の
野心を述べた。「本当に韓国で受け入れてくれるだろうか。」という応えが返ってきた。
信じられないというのだ。私は、「必ず出来る。近いうちに実現しましょう」とその時、
ひとり力を入れて語った。
 世の中、流れが変わった。九四年二月、韓国政府は、大衆文化を段階的に開放してゆく
方針を打ち出した。なんのことはない。難しくはなかったのだ。要は、良いものは良いか
ら正面から受け入れるということだ。民主の国になってきたことを歓迎する。文化の先進
国になるのだ。
 五回目の最終公演が終ったとき、会場整理のボランティアをしていた一人の婦人が、興
奮した様子で私のところへかけつけてきた。
「五回とも毎回見ました。わらび座に対して、予備知識が何もありませんでした。だから
最初はよくわかりませんでした。でも見ているうちに、だんだんわかるようになりました。
勉強したのです。この次にもまた来て公演してください。そして全国を回ってください。
こんな人生の喜びと励ましを感ずる舞台は初めてです。韓国の人々に感動を与えてくださ
って本当にありがとう。この次は、しっかり勉強して、お待ちしております。」
 これが、わらび座の光州ビエンナーレ記念公演に対する大多数の韓国人の評価であると、
私は自信を持って言うことが出来る。



夢を抱けば、願いをかければ、かなうものだ。このたびの公演の成功は、わらび座にとっ
てはもちろんのこと、田沢湖町や秋田県、いや日本にとっての喜びでもあるはずだ。また
韓国や光州市は、ビエンナーレの成功のためにわらび座が大きく寄与してくれたことを喜
んでいるはずだ。私にとっても、今まで生きた人生のうちで数々の出来事、節目があった
が、第一回光州ビエンナーレでのわらび座公演の実現とその圧倒的成功は、もっとも輝か
しい一ページとして大きな比重をしめることになるであろう。そんな意味で、わらび座の
皆さんの誠意に敬意をはらい感謝したい。そして受け入れ、理解し、拍手して喜んでくれ
た祖国韓国の人々の寛容にも感謝する。
日韓の文化交流がこのような感謝の気持ちで自然に行なわれることを、私は無常の喜びと
する。
しかし、現実はそう甘くない。六月に行なわれた朝日新聞社と東亜日報社の第四回日韓共
同世論調査の結果を見れば、背筋が寒くなる。韓国を「好き」という日本人は一一%、
「嫌い」が二一%。一方、日本を「好き」という韓国 人は六%で、「嫌い」が六九%。
日韓両国の歴史にのこる溝の深さを痛感せずにはいられない。
日本と韓国の間がぎくしゃくし、戦後五〇年間、必ずしも理想的なものでなかったことは、
この数字が何よりも如実に示している。我々はまずこの現実を直視したうえで、前向きに
心せねばならない。
「日本人は悪くてずるい」「日本は過去の過ちを認めない国」。「韓国人は執念深くて怖
い」「韓国は軍事独裁の国」。隣どうしの溝が埋まらないのは、こうした先入観である。
大事なのは、普通の人と人との出会い、国家間の溝をうめるのは人間でしかないというの
が私の理念である。

 そういう意味で、日韓両国の人々が誠実に努力しあい、お互いの力を出しあって成功さ
せたわらび座の光州ビエンナーレ公演は、「境界を越えて」、あすの日韓両国の友好を約
束するものと信じている。

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