◇在日同胞の和合をめざして◇

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「在日同胞の新しい共同体を求めて」をテーマに、解放五〇周年記念・在日同胞シンポジウムが、一一月三日、野口英世記念会館で開かれた。在日韓国・朝鮮人が国籍の違いをこえて、在日の将来を模索しようというよびかけ人となった。
 その第一日目は、「在日同胞の和合」というテーマであった。基調報告は、文京洙立命舘大学助教授からなされ、在日朝鮮人運動の半世紀について、
 「本国の対立を反映する形で在日朝鮮人運動の対立があった。本国直結型の運動を否定は出来ないが、いろんな運動のひとつとして相対比することが必要だ。」と述べられた。
パネラーの金総領統一日報編集長は、和合について、「いろんな立場、多様な価値観をもったものが調和すること。実践を基にした和合、反省の和合、民主主義の原理に則った和合がなされなければならない」と述べた。
 私は、「反省の和合」という言葉が身につまされ、五〇年がかけめぐった。韓半島の分断が、政治イデオロギーの対立となり、民族団体が二つに分裂してきた「解放五十年」の歴史をふりかえり、多様な考え方を受け入れる新しい共同体「在日」づくりに向け議論がかわされた。
 戦後の日本共産党との関係の誤りから始まり、本国政府との直結型の運動のあり方に対する主体性のなさに対する無知と無意識への反省が語られ、あるパネラーが個人的謝罪までされたのには驚いた。
 朴炳閏コーディネーターから、「両組織のはざまで板ばさみになってご苦労されたというコメンテーター河正雄さんのお話を伺いたい」と指名された。
 「コーディネーターから両組織のはざまでの板ばさみと紹介されましたが、私は板ばさみではなく受難≠セと思っております。実は一昨日、赤穂市に居住されている在日二世の方と日本人とともに、光州ビエンナーレ会場においてお茶会を開き、韓国の人々と親善友好交流茶会をして帰りましたところへ、今日のコメンテーターとして発言してほしいと頼まれたのですが、コメンテーターというのは何をすればよいのかわからず、言われるまま参りました。
 私は秋田県の田沢湖町で高校卒業まで暮らしました。一九五九年川口市にうつって二年後、総聯(在日本朝鮮人聡聯合会)の事務所に伺い北朝鮮に帰国する手続きに参りましたところ、川口には三千人の同胞がいるので、君は若いので同胞のために働いてくれないかと慰留され、商工会の仕事を受持つこととなりました。当時、銀行も、銅鉄商組合も、納税組合もありませんでした。そのような同胞の権利地位確保関係の仕事に関わりながら、毎日、ビラ貼り、チラシ配り、新聞配達などいたしました。幹部たちは、ビラ貼りなどはしませんでした。 結婚して、下に妹弟四人がおり、学校にもやらなければならなかったものですから、生計をたてるため小さな電気店を開きました。二またはかけられず、足かけ四年ほど務めましたが、商工会をやめさせていただきたいと申し出ましたところ、ちょっと私が便所に行ってかえると、委員長室から私のことについて大きな声が聞こえました。あいつはスパイだから、今後は事務所に近づけるなという話です。それ以来現在まで、私は総聯の事務所には行ったことがありません。

 組織はコリゴリだと思っていたのですが、民団(在日本大韓民国居留民団)から副団長の指名を受けました。当時民団を通さないとパスポートもとれず、韓国の先祖の墓参りも出来ないので引き受けました。引受けて何を考えたかといいますと、民団と聡連が仲よく出来ないだろうか、そして日本人社会ともです。そこで埼玉セマウル美術会というものを作って共に絵を描き足かけ八年ほどつづけました。精一杯、思うようにやりましたが、それすらも出来ないようにする組織でした。
 母が六〇歳の還暦を迎え、それまで母と共に暮らすことが出来なかったものですから、それを機に一緒に生活するようになりました。私はその感謝の意味で、それまでお世話になった地域の同胞の方々をお呼びして家で母のお祝いを致しました。
 二日後に民団から呼び出されました。副団長が総聯の幹部を呼んで食事をしたことは不見識だ。アカだ、スパイだというのです。そして、辞表を出せというのです。出さなければ監察にかけるというのです。私は監察にかけられるような悪いことは何もしていない。世話になった人に感謝して何が悪いのか。人の道にはずれたことをした訳ではないから、喜んでやめさせていただきますと辞表を出しました。それ以来今日まで、私は民団には出ておりません。
 今日、私は誕生日を迎え、満五六歳になります。もうこの歳になって、昔の三十年も四〇年も前の話はしたくなく、グチや恨にとらわれるのもシャクですのでお断わりしたのですが、今日の在日同胞の団合≠ニいうテーマのために反省の和合≠ニいうことでこんな話を致しました。
 私は一般人、庶民です。何も偉くもないし、権力も地位もありませんが、解放五〇年もたった今日、こんな話をすることが口惜しいです。」
 コーディネィターが、「これから総聯の事務所にも気楽に遊びに行けるような同胞社会をつくりましょう」と話された。
 となりの老夫婦ともハンカチを目頭にあて、会場は静まりかえっていた。みな思い当ることがあるという共感を抱いたようだ。             
 同じ川口に住んでいる親しい老婦人が語った。
「イデオロギーや組織をこえて、同じ民族同じ根であるのだから、私達が生きている代にやれることはやらなければなりません。お金も知識も学歴も地位も関係ありません。次の代の子供達までにこんなイヤな思いはさせたくありません。親は先輩は何を残してくれたのかと子供達にいわれたくない。私達は祖国から帰ったとき、成田に着くとホットする。それは在日であるからです。だから私達は仲よくせねばならないのです。」
続けて老婦人は私がもっとも言いたいことを語った。

 「日本人に差別をするなという前に、自分たちの間の差別をなくさなくては統一も和合もありません。慶尚道だ全羅道だといって地域差別しあっているような同胞社会では。」
そして民団だ、総連だと同胞同士争っているようでは余りにも情けない。光復50年、民団では「居留民団」から「居留」を名称からはずした。日本に永住定着し、祖国発展への寄与と日本社会への貢献など定住志向を鮮明にした。日本社会で尊敬され模範的市民になること。「共生・共栄」の姿勢、精神こそ今、求められている時代の流れであることは、国際社会では自明であるからだ。

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