◇果敢なフロンティア精神◇

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「どこか遊びに行くところがありますか」と宿の主人に尋ねた。「清泉寮へ行ってみたら」と教えられた。敷地が、清里と大泉の境界に接していたので両村の名前から一字ずつとった名称である。
そこで私は、思いがけず偉大な人を知ることとなった。その名はポール・ラッシュ(一八九七ー一九七九年)。
 一九二三年の関東大震災で破壊された東京YMCAの再建のため、一九二五年来日したアメリカ・インディアナ州生まれの宣教師である。
 「イエスは病める人々を慰めいやしたではないか。飢えている人々に食を与えたではないか。イエスはしばしば人々を集め、有益な話し合いの時をもったではないか。幼子を集めて祝福し、働く希望を与えたではないか。」と、農村伝道および農村への奉仕の実践的キリスト教の思想が、「キープ」(清里農村センター)を設立せしめた。病院・農場・保育園・農業学校・清泉寮がそれである。現在の清里の発展の礎を築いたのが、ポール・ラッシュ、その人なのである。彼のフロンティアスピリット(開拓精神)ぬきにして、清里を語ることはできない。
 落葉松や白樺の林はまだ芽吹いていない。静寂のなかの八ケ岳にかかる雲の美しさは幻想的で、残雪がまぶしかった。清泉寮は、ヨーロッパの香りをいっぱいにたたえながら、日本の早春を背に孤高にたっていた。
 私はその三角屋根のチャペルのたたずまいを見て、戦後のNHKの連続ラジオ・ドラマ「鐘の鳴る丘」の舞台を思い起した。それは、戦争で身寄りをなくした孤児たちの受け入れ施設であった。モデルになったのは、長野県の川上村と境を接する山梨県須玉町黒森地区の「少年の町天使園」だと聞いた。
崇高なボランティア精神と果敢なフロンティア精神。「日本とアメリカはよい友人になれる」と、国境と民族を越えた無私の奉仕と博愛・人道主義思想。異郷人が、ましていわんや、日本の敵国「鬼畜米人」だった人が、戦前・戦後を通して日本の地に留まって実践している遠大な人類愛のロマン。私は、彼の「最善をつくせ、しかも一流であれ」という言葉とともに、キリスト教の教えに対しても大きな関心と感化を受け、清里に降り立ったことを至福と考えた。 数年たって清里の念場ケ原に敷地を購入し、小さな山小屋を建てた。この一帯は、柏前ノ牧として、古来名馬の産地として名高く、「甲斐の黒駒」として名声を博したことが「日本書紀」など諸書に伝えられている。この地方、巨摩郡というが、私は高麗郡だと思った。この一帯が高句麗から来た渡来騎馬人の住みついたところと推理し、合点したからだ。

 埼玉県日高市の高麗神社の由来を見ると、「『続日本紀』巻三によれば、七一六年、駿河・甲斐・相模・上総・下総・常陸・下野七ケ国在住の高句麗人一七七九人をこの地に集めて開かれた」と書いてある。私は、この念場ケ原にいた高句麗人がその時代、日高地方に移ったものと頼もしく思うようになった。

枯すすきにからまつの葉の散り積みて時雨にぬれし色のさやけさ

 念場原で詠まれた若山牧水の「木枯紀行」のなかの一首である。

 また、山頭火は、行き暮れてなんとここらの水のうまさはと、清流、清里の水のうまさを詠った。
津金の山中に海岸寺がある。王仁博士の後裔といわれる行基菩薩によって、七一七年に開創されたと伝えられている。海岸寺は、人が生きていく道を静かに考えるところで、寛大さが漂う。
須玉の町には、新羅三郎義光の菩提寺、正覚寺があって、新羅という名に郷愁と縁を覚える。

 私はこの地で三人の子を育て、社会人として世に送り、疲れはてた心と病んだ身体をいやした。満天の星と歴史を囁き、遠い昔のロマンを偲んで三十五年生きた。

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