◇私のルーツ◇

ホームへ 在日へ

私のルーツ

−戸籍謄本−

 半世紀前の1958年、私は秋田県立秋田工業高校3年生であった。
その年の一学期末、学校から、卒業後の就職の試験を受けるために戸籍謄本の提出を求められた。

それまでは外国人登録証明書の提出だけで身分の証明をしてきたので、戸籍謄本の提出を求められる事に戸惑いを覚えた。それまで父母から戸籍謄本なる存在を全く知らされずに育ち、日本での生活において提出を求められたのは初めてのことだったからだ。

 そのことが日本社会に出る最初の関門と試練になり、私自身のルーツ捜しの旅となった。
 戸籍謄本を取り寄せるために駐日韓国大使館、そして韓国民団を訪ね、さほど障害もなく取り寄せることが出来た。しかし届いた謄本の内容に問題があった。

謄本に記載されている私の名は「正雄」ではなく「政雄」となっていたことと、弟二人が戸籍に載っていなかったことである。

父母に聞いてみたところ、私の名について光復前(戦前)に人に頼んで行なったので間違えたのだろう、弟二人の戸籍は光復後(終戦後)のどさくさで頼む人もいなかったので戸籍に載せられなかったという。無責任といえば無責任ではあるが父母の言うとおりで生活に追われ、それどころではなかったのだろう。我が家の戦後の生活状況は、日々切迫していたから私には理解することが出来た。

−卒業証書−

戸籍の不備を直すために書類を整理して手続きを終えるまでには半年以上もかかった。学校から推薦を受けた日本を代表する大企業の試験を受けるべく、私はその謄本を提出した。

しかし試験のチャンスは一度も与えられなかった。要するに門前払いを受けたのである。その時私は日本の大企業には韓国(外国)人である理由、戸籍条項による就職差別、民族差別があるのだと悟らされた。その不条理に私は激しい憤りを覚えたが一介の高校生である私には抗う術もなかった。つい最近まで日本社会には、外国人に対する差別条項は就職差別のみならず、金融や保険、住居や教育など280以上の分野に及んでいたのである。

このような事情で、学友は就職先が決まっていたのだが、私は卒業の間際まで進路が決まらずにいた。卒業間近になって担任の青海磐男先生に呼ばれ、「君の卒業証書のことだが、名前と本籍をどう書けばよいのか」と尋ねられた。

それまで私は通称名である日本名の河本正雄と名乗り、出身は出生地の東大阪市としていた。しかし私は即座に戸籍謄本にある通り本名の河正雄、本籍は朝鮮(当時、韓国と日本は国交がなかったため)と記して下さいと答えた。

その卒業証書は自分のアイデンティティーとルーツに目覚めた私の原点であり、岐路となった。東京に一人で上京し、自力で人生の船出をした。それが私の20歳までの人生の行路である。

−族譜−

今から30数年前、(1970年始め)のこと、我が家に一本の電話があった。「私は河南斗という者だ。霊岩から来た者だが正雄さんのお父さんやお母さんを良く知っている。

一度正雄さんに会いたいと思い東京にきた。」と言った。故郷霊岩からの初めての血脈が繋がる方との出会いである。

河南斗氏は日本語を流暢に話され、重量感のある大人の風格を持った人柄を感じさせる人だった。「私は河家の族譜を補充し新たに作ろうとしている。

日本にいる河家の子孫たちを訪ね歩いて調べているのだ。」と言われた。「東京の河徳成氏や京都の河炳旭氏を知っているか。」と尋ねられた。しかし故郷とも在日の縁故とも断絶して生きていた、この時点では知る由もなかった。

後日、その方々を知ることになるのだが日本で成功を収め、名を馳せている人物であった。その時、河南斗氏が河家の族譜の一冊を見せ「これは大事なものだ。君にお土産として持ってきた。」と言って下さった。その時の私は族譜なる存在すら知らなかったのだ。

−故郷−

河家の族譜を始めて目にして震える心で私のルーツを確認した。そこに記されていた厳粛なる河氏の血脈の事実にただ圧倒されるばかりであった。

その翌年、偶然にも青森八戸市で、姻戚筋にあたる金義男氏の長男・性植の結婚式で河南斗氏に再会した。式を終え夜行列車で共に東京に帰ることになったが、周囲から霊岩での指導者的人物の一人であること、実業家としても並々ならぬ人物であることを再確認させられた。

その時に「正雄さん、歓迎するから霊岩に一度遊びに来なさい。」と一族の長老として我が子を諭すように話された。それまで父母は日常で霊岩の事に触れたことはなく、故郷を訪れようと話したこともなかった。河南斗氏の誘いの言葉は、霊岩と祖先が呼んでいるように思えて、私の胸に急速に熱くなり、近くなったのである。当時日本での生活は困難を極め確立していなかったから、故郷に帰るなど父母には夢にも考えられなかったのが実態で、父母の心中は誰よりも私にはわかる。

それ以来、父は故郷霊岩に帰りたいと、朝な夕なに泣きながら訴えるようになった。そこで母を説得し、霊岩を父母と共に訪問することとなったのである。父母にとっては夢にまで見た42年ぶりの帰郷であった。霊岩に着いてまず始めに祖先の墓参りをした。そこで私は祖先の存在を確認し、父母の故郷の偉大さと温かさを認識した。
その翌年、父はまた霊岩に行きたいとせがんだが、一度だけの故郷の思い出を抱いて急に亡くなった。

−報恩−

その後、私は父母のおかげで、父母の故郷を自分の故郷として韓国と日本との懸け橋の人生を送るようになった。

その道程で道岬寺には祖先の有り難さから安寧を祈り石燈を二基建立し恩徳に感謝した。月出山九龍峰の麓には母方(外姻戚)の祖父(ハラボジ)の墓を建立し祖先を祀った。
王仁廟には王仁廟浄化事業に参加し浄化記念碑を建立した。そして王仁廟周辺には桜の木、欅の木を各々200本植樹した。1600年前渡日した王仁博士の先賢の徳に尊敬の真を尽くし顕彰したことは、私の誇りである。

また光州市には盲人福祉会館建立、光州市立美術館へ作品寄贈、5.18記念聖地竣工記念に欅植樹、光州ビエンナーレ支援など文化事業支援、メセナ運動を推進出来たのは皆、祖国と故郷霊岩への報恩と誇りによるものである。在日の私が存在を示し、矜持を抱いて生きてこられた大きな原動力、その源は故郷あればこそと思う。

−栄光−

2005年5月3日、霊岩における霊岩河氏門宗の宗廟浄化事業竣工にあたり、私は我が祖先の恩徳に感謝し、その遺徳を受け継いでいくことの意味を噛み締める。子孫たちの未来への繁栄と安寧を約束するメッセージであると思う。

霊岩河氏門宗の子孫達が国際社会や人類社会で、誠実さと勤勉さをもって、平和と幸福の追求のために寄与する有能で優秀なる希望の人脈、血脈であることを願わずにはいられない。
聖なる月出山、悠久なる霊岩の輝きが我々の行く道を照らし、霊巌河氏門宗の栄光を守ってくれることを祈っている。

(2005年5月3日 霊泉斉重建記念誌)