◇私の愛する光州◇

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私の愛する光州

 本日、光州広域市議会第124回第1次定例会を訪問し、市民の代表であります市議会議員の皆さんとお会いできました事を大変嬉しく思います。公私ご多忙の市議会議員の皆さんが私の話を聞いて下さることを光栄に思います。

 このような厳粛なる市議会場で名誉ある機会を与えて下さり、私を迎えて下さった関係者の皆さんに感謝を致します。私を既にご存じの方もいらっしゃるかと思いますが、今日の皆さんとの出会いを、偶然なる御縁ではない、意味深いものと考えております。

 全南霊巌は父母の故郷です。母は84歳で健在ですが、父は29年前64歳で亡くなりました。1928年、父が16歳の時に日本に渡り、1939年私は東大阪市で生まれました。我が家の在日の歴史は現在、孫の代まで4代79年となりました。

 私が生まれた1939年は第2次世界大戦が勃発し、創氏改名が強要され、強制連行が法的に強行された歴史的な年です。戦争と植民地政策の苦渋の中で生まれた私は祖国の運命に翻弄されながら在日での64年間、その歴史と記憶を生涯忘れず、平和に拘り続けて生きてきました。光州に関わる話を3つに絞って致します。

 光州との御縁は1981年からです。在日1世、全和凰画伯の画業50年展開催準備のため光州に参りました。光州事件の翌年のことで、市内の惨憺たる状況を眼にしました。日本で事件の経過をTVや新聞で知り心を痛めておりました。その時市民の人心は荒廃しており、美術や芸術に関心が届かなかった頃です。

 1982年5月、呉之湖先生をお迎えして全和凰展を南道芸術会で開催しました。その巡回展の疲労のため、私は光州でダウンしてしまい、視覚障害者の黄英雄氏のマッサージを受けました。その時、黄英雄氏が私に頼み事があるというのです。

 「全羅道にいる2000人の視覚障害者のために、協会と会館を作りたいと数年前より道庁や市庁の福祉課を尋ねて要請してきました。市や道から何の返事もなく、助けてくれない。」と訴えるのです。その時、光州は社会的弱者に目を向ける余裕などない状況でした。福祉など名のみの時代でした。

 私は彼に言いました。「為政者を頼らず、障害者だから助けてほしいと言わずに、自分たちの力と努力で運命を切り開かねばならない。」と。「力のない、私達に何が出来るのですか。」と彼は私に尋ねました。「あなたのマッサージ代は6000ウォンですね。私が1000ウォンプラスして支払いましょう。あなたも1000ウォン出しなさい。あなたの同僚達とお客さん達の協力を得て募金活動をしなさい。マッサージをする毎に2000ウォンずつのお金を積み立てて基金を作るのです。200万ウォンの基金が出来たら連絡を下さい。あなた達の自立しようとする姿勢と意志が見えたら協力しましょう。」と約束しました。

 彼らは1年後に私との約束である200万ウォンの基金を作りました。それを元に協会事務所を借りました。そして引き続いて募金活動をして土地を買いました。1988年、市や道から各々5000万ウォン、計1億ウォンの助けを受けて現在の建物を建てました。「土地は30坪、会館は30坪あれば良いから頼む。」と彼は当初、遠慮して言いました。私は土地を162坪購入し、会館は131坪のものを建てました。彼らや市と道、光州市民や在日同胞と日本人達の力の結集により韓国で初めて官民一体となって作り上げた福祉会館です。

 「これでも少ないと思うが、私の力で出来るのはここまでです。」と私は彼に謝りました。今、盲人福祉会館は手狭で動きがとれないほどの発展規模になっています。その後も幾度か、黄英雄氏から助けてほしいとの要請がありました。これからは市民等が市や道の官と共に、地域の問題は地域で考え、解決していくようにと指導しています。どうか彼らに道が開かれますようにレールと列車を与え、力を貸してあげて下さい。

 当時、福祉があってない時代だった韓国が、困難な時代でありながら助け合いの精神と英知、希望と展望を持つことの意味を、この盲人会館建立事業は教えていると思います。会館建立後、「たかだか2、3億ウォンで建てた会館」という金銭的評価のみで、事業を評価をする人が多かったことに寂しい思いをしました。ですが出発時には市も道も100万ウォンを出すのが精一杯の時代があったことを忘れてはいけません。金額のみで物事の評価をするのは真実を知らない、価値のわからない人の言うことです。ちなみに私は会館完成まで7年間に50回も光州と日本を往来、指導をしたのは、その社会的事業の価値には金銭では計れない付加価値があったからです。多額の経費と時間とエネルギーを投資、全てボランティア精神でやりました。

 「あなたに頼みたい、あなたに助けてほしい。」と言われたことの言葉の意味を考えて下されば、私の誇りがお判りになるはずです。市議会議員の皆さん、こうして生まれた盲人福祉会館の原点は哲学的精神を礎としております。福祉行政の先進として市がこの魂を受け継いでほしいと思います。

 私は1933年、久しぶりに光州に立ち寄り、友人の呉承潤画伯とお会いしました。その時「昨年光州に市立美術館が出来たので遊びに行こう。」と誘われました。そして「1つお願いがあるんだ。訪問記念に1〜2点、あなたが持っている美術作品を寄贈してはもらえないだろうか?」と請われました。車鍾甲美術館長にお会いしたところ、「あなたが2〜3点寄贈して下さるそうですね。」と言うではありませんか。そうしている間に美術館の2階の第4展示室に案内され「この部屋をあなたの記念室にしたいので、あなたのコレクションを寄贈してほしい。」と言うのです。

 「オープンにこぎつけるまでに2年間、美術館に収蔵品がないので全南や国内の画家達に作品の寄贈を頼んだが、集まったのは百数十点でした。これでは美術館の機能や運営が果たせない。助け、育ててほしい。光州の文化発展に力を貸してほしい、そして光州を愛してほしい。」と言いました。

 私は車館長の、この言葉で人生の大きな決断をする事にしました。私は青春時代に社会に奉仕し、公に寄与するという哲学を持ち、決意し使命を持った。そして、その使命に生きた自己の存在を光州に賭ける事にしたのです。それは人生の意味、進路の大きな選択です。私は、私の生涯をかけたコレクションを光州市立美術館に寄贈することを決意したのです。

 第1次1993年212点、第2次1999年471点。2003年7月21日は第1次寄贈から満10年となる記念日です。その日第3次寄贈として1182点を寄贈致します。これにより合計1865点となりました。第2次寄贈以降の4年間に37回に及び美術館に送り続けた成果です。これには一寸した誤報があったことを打ち明けます。私は1次、2次を合計して決まりよく1000点になるようにしたいと希望を述べたことが「河さんが1000点を追加、第3次寄贈をする。」と新聞で報道されたことです。

 誤報にならず嬉しい結果になったことで胸を撫で下ろしております。また第3次寄贈作品の中には32人の作家達が私の寄贈趣旨に共鳴され、無償、または制作費のみの有償で作品をメセナ精神で提供してくれたことをご感謝し報告します。

 過去に、第1次、第2次の時寄贈された美術品の価値が幾らであるか、数量と金額が話題になりました。またこれらの価値はゴミのようなものであると神経を逆撫でするようなことを言う人まで現れました。著名な光州の元老作家は「ゴミもこれだけ集めれば立派な宝だ。」とも言われました。両極端な価値評価でひどいものでありますが、ゴミであるのか、宝であるのか、寄贈を受けた光州市民の英知と見識が問われる問題であると思います。「助け、育ててほしい。光州の文化発展に力を貸し、そして光州を愛してほしい。」と言われた人間の誇りを守るために純粋で誠実な心で、賊でない証しの為に寄贈を黙々と10年間続けたのです。

 韓国の独立運動の高潔なる指導者、安昌浩先生は嘘を嫌いました。「真理には必ず従う者がいて、誠意は必ず実を結ぶ日が来る。」という言葉を私は信じていたからです。1人の人間が40年をかけて集め、美術を愛し、美術に全人生の命をかけたコレクション、その全てが光州市民のコレクションであるという真実です。

 生前、呉之湖先生は「在日同胞といえば故郷に来て金をばらまき、功名心を煽る行為をしている。女遊びや遊興にふける姿は最低である。在日同胞は犬胞、金胞、糞胞だと言っていたが、君を見て在日同胞への認識を改める。」と言われたことがあります。在日同胞に対する偏見と誤解が解けたことを私は喜んでいます。

 しかし日本人でない在日韓国人、韓国人でない在日韓国人が両国で生き、理解され認められるのは容易なことではありません。お金だ、名誉だ、学歴だと毀誉褒貶に捕らわれず、祖国や同胞のことを考えた奇特な人間が在日同胞にいたという事実、「嘘」でないことを河正雄コレクションは語り証明するであろうと思います。

 私は光州ビエンナーレを記念してビエンナーレ展示本館に近い、中外公園の一角に柿の木を1本植えました。1945年長崎に原爆が落とされ爆心地は、あらゆる生命が死滅しました。しかし唯一柿の木だけが生き残りました。長崎の樹木医海老沢正幸氏が被爆したその柿の木から2世を生み出し、2000年光州ビエンナーレの出品作家である宮島達男氏がアートプログラムとして世界中の子供達に「被爆柿の木2世」を体感し、育てる植樹活動に私は共鳴したからです。

 人類全ての平和を願うシンボルとして人権の都市光州のシンボルとして被爆柿の木を植樹した意義は大きいものです。ところがビエンナーレ終了後、柿の木は無惨にも引き抜かれてしまいました。2001年再度長崎から苗木を取り寄せ再植樹しましたが枝や葉を切り取られ、今や瀕死の状態です。縄と鉄条網でグルグル巻きに守られている柿の木の姿は異常、且つ見苦しく光州に相応しくない姿です。

 私は今年2月、光州にまた苗木を持って参りました。そして現在、秘密の場所で育てています。しかし柿の木に何の罪科があるというのでしょうか?植物1本を育て実らすことが出来ない民族なのか?市民なのか?私は理解に苦しんでおります。

 原爆の厳しい現実の中で生き延びた強靱な柿の木の生命から刺激を受け、その尊い姿を見ることで未来の子供達にとって学ぶことが多いと私は考えています。

 種を蒔き、木を植える事は容易いが、これを育み花を咲かせ、実がなるまでには時間と弛まぬ努力と精神力が必要とされます。特に文化芸術においては言を待つまでもありません。

 河正雄コレクションの意味について市民や市議会議員の皆さんに考えていただきたい。私のコレクションのコンセプトは「祈り」であります。平和への祈り、心の平安への祈りであります。犠牲となった人々や虐げられた人々、社会的な弱者、歴史の中で名もなく受難を受けた人々に向けられた人間の痛みへの祈りであります。

 人々は長い間、河正雄を不思議な人物として社会の異端者、もしくはアウトサイダー、理解しがたい人間であるように思われていたようです。しかし、韓日の痛みの歴史の中で在日に生まれ、在日に生きた私の心の事柄、持ち方、精神の出来事である事を皆さんは確認されることと思います。

 光州は芸郷、義郷、味郷の都市として内外に認識されるようになりました。私はここに加えて1980年代、受難を受けた痛みを癒すコンセプトを持った都市、平和と人間、弱者に優しく温かいヒューマニティックな「祈り」をテーマに世界にメッセージを発する、精神性豊かな都市になってほしいと願っています。

 今、私達は資本主義と物質文明の中で進むべき方向や人間性を見失い、大事なことを忘れてしまったことの多さに気付きつつあります。物質や形、量や数、力や富が最善のものではない、人間社会を豊かにするものではないことが判り始めています。人間は過ちを犯す動物です。しかし過ちを犯した後は反省し、良く改めれば社会は良くなるはずです。

 私は心の持ち方、精神の在り方を光州で学び、実習したことを皆様にお話ししました。「人間に優しい都市光州」の創造は世界から共感をもって愛され、不偏の価値を認知されるものと信じます。本日は私と皆さんを強く結びつける御縁深い日となりました。光州市民が大変なときに私の心が役立ったこと、市民から歓迎されたこと、無償の愛が通じたことを人生最大の喜びとしております。

 しかし正確に言葉や発音を表現できないため、皆様に苦痛を与えてしまったのではないかと、恥ずかしさと無念があります。私の勉強不足と不明を侘び、育った時代と日本という環境を理解して下されば救われます。最後まで私の話を聞いて下さったことに感謝いたします。

 最後に、私は著書にサインを求められると「百花為誰開」という文字を書きます。我々一人一人が花であり、百の花、千の花、億の花が誰の為に咲けばよいのか?という問い掛けです。社会のために、公益のために、人類の福祉のために、平和の祈りのために咲く花になろうではないかという呼び掛けです。

 私の苦悩や苦痛は人生の遠回りのように思われるかもしれませんが、公益のために生きることは損失でもなければ人生の無駄でもないことを私は確信として語りました。

 光州広域市の無窮なる発展と、光州市民の平安と幸せを心から祈っております。

光州広域市議会第124回第1次定例会演説(2003.7.1)
光州市立美術館-河正雄COLLECTION関係(2003.7.21)

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