◇NPO法人「共に生きる国際交流と福祉の家」での講演F◇

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 それから、在日がなぜ日本に来たかということは、私の例を挙げましたね。父母が日本へ来たのは昭和の2年です。植民地時代ですから、朝鮮では食べるものもないんで、日本へ行って働こうということで来たのが・・・。だいたいそういう方たちが日本に来たんですね、最初は。だんだん日本は戦争に深入りして、強制連行を始め、中国人や朝鮮人を動員してきた。

そして戦後になって、先ほど私が言いました通り、船の配船がつかないで残ってしまって、今日まで在日しているのがこの河正雄です。そのような在日の方たちがたくさんいらっしゃるんですよ。私ばかりじゃなくて。だから二世、三世、四世、今五世までなってますけれども、そういう人たちの末代ですよ。

ITの孫社長の一代記を読んでみて下さいよ。お父さんお母さんがどれほど苦労したかっていうことを、在日の事を書いてあります。みんな似たり寄ったりですよ。それぐらい苛酷の中でもやっぱり人間性というのは問われます、蔑視の中で生きたというのが在日です。

税金は払うわけだけど、日本の法は守っているわけですけど、権利は貰えない、参政権など。いろんな差別の法律を撤廃してきましたよ。まだあるでしょうけど、基本的には法では守られるようになりました。私たちが「下さい」とか「お願いします」と言って人権を求めて闘ったからできたんです。

日本の人から「お前たちが楽になるように」ってくれた権利はないんです。それくらい苛酷なものでした。でもおかげさまで、世界の人権家や民主主義の運動家や、日本の国民の支援もあって、一緒に連帯して闘ったという成果が、在日の歴史として誇りとしてあるんですよ。

私たちがいろんな差別条項を撤廃したがために、今外国から来た人たちは差別なしに日本で住めるようになっているでしょ。だから在日の韓国人・朝鮮人というのは、素晴らしい人権運動家だし、民主主義的なマインドを持っている世界人だと、私は誇りにしていますよ。闘ったからといって、武器を持って闘ったことは1回もありません。ここは民主主義の日本じゃないのかといって。

 今在日の人々は、「韓流」「日流」の流れで救われたような気持ちでいますね。ニンニク食べてるだのキムチ食べてるだのと言われてきた時代、朝鮮戦争の後にいわゆるファッショの軍事政権のために悪いイメージが出来て。もちろん日本にいる私も寂しい思いをしましたけど、もっと寂しい思いをしたのは本国ですよ。北と南に分かれて、戦争ですよ。この情けなさ、悔しさ。そういう状況の中で我々は今も生きているんですね。

 来年は日本と韓国が国交を結んで40周年ですよ、国交正常化して。そして2005年は「日韓友情年」ですね。いい流れですね。私たち在日を、私たちを蔑視し差別もしたけれども、本国も同じく私たちを無視した時代があったんです。私たちは棄民だったんですよ、在日は。

自分の国もなかった。パスポートもなかったんです。40年前まではなかった。日本の国民でもなかった。選挙権もないですしね。そういう中で解放後60年今日まで生きてきた。この状況で次の代まで引き継ぐわけですから。こういう在日の情緒っていうか情を理解していただきたい。

今「韓流」だとか「日韓融合」だとかって、皆さんやってますね。太鼓叩いて笛吹いているのは、日本国と韓国ですよ。在日なんかは、全くつんぼ桟敷ですよ。別に私はそれが悔しいとか寂しいとかいうことじゃなくて、こういう流れになった礎を作ったのは、在日の人たちのたゆまない闘いというか、生き様というか・・・、日本で激しさと厳しさの中で一生懸命生きてきた。

人間らしく生きていこうと、文化的に生きていこうと、民主的に生きていこうという精神ですね。こういう誠実な魂を持って生きたのが在日なんです。そのことを皆さん1つ肝に銘じてもらいたいなと力説したいんですね。在日の人たちの歴史というのは、真摯な積み重ねがあった、今日の「韓流」「日流」「日韓友好・親善」の基礎である。

北との問題もこれからですが、友好親善に進んで行く時には、在日の力はやはり大きく寄与する。私はそう信じていますし、将来に希望を持っております。ですから在日の人も北とか南とか、赤とか白とか、そんな区別の仕方じゃなくて、自分たちは一緒に生活している市民であるし、一緒に手をたずさえて、連帯をして、お互いに力を貸しあって生きていくという、「共存」「共栄」「共生」の考え方にならなきゃいけないんじゃないかと思っております。

 国際交流の話ですけれども、皆さんはもう立派に国際交流の仕事をなさっているので、私がここでいろんなことを言うのは眉唾で恥ずかしいことですが、だけど人間学習が必要です。繰り返し繰り返し学習しなきゃならない。そんなことはわかってるよと言っても、学習する、しなきゃならない。

国際交流について私なりの考え方ですけれども、皆さん体験済みだから、経験済みだから、ご承知のことでしょうけれども、聞いて下さい。よく国際交流、国際交流って今はやされていますけれども、名目や中身とかいうものは甘っちょろいですね。本当に身が入ってない。気になる。

私たちの先祖に遡ってちょっと考えてみたい。韓国全羅南道霊岩、ここが私の父母の故郷です。応神天皇の時代、これは古事記にも記録があります。この霊岩の出身者である王仁(ワニ)という方が応神天皇の招きで、学者として文化の使者として日本に来たんです。

古事記の記録によると、3世紀ですね。だけどその後の日本書紀を読むと、4世紀となっている。どっちか本当かわかりません。どちらも700年代に書かれた、古事記であるし日本書紀であるから、どっちが正しいか僕は言えません。

王仁(ワニ)博士という方が、応神天皇の招きで来て、仁徳天皇の家庭教師になった。この方が日本へ来る時には、まだ文字がなかった。そして哲学、生活の規範になる倫理、そういうものを核心とした「論語」と「千文字」、漢字ですね、それを日本へ携えて来た。それが礎になって飛鳥時代、奈良時代と文化がひらけていく。王仁の出生地が、父母の故郷なんです。

今から1600〜1700年ぐらい前の話ですよね。そういう時代に、私の父母の故郷から日本に文化を伝道し、日本の文化の礎を作った、日本と文化交流の話をする時に、大事な誇りだと思うんですよ。
 霊岩には王仁(ワニ)の廟があります。この廟を作る時に、桜の木を私は植える運動を始めたんです。それまで廟はなく荒れ地でした。

ただの岩山で草ぼうぼうでした。そんな所に王仁(ワニ)博士の廟を作ることになったんです。それで作る時に周辺に桜を植えたんです。今は桜の名所ですよ、王仁(ワニ)の廟は。皆さん1回、来年でもいいですから、グループで訪ねて下さい。桜が誇りです。日本の国花である桜というのが咲き誇る。自虐なんか絶対生まれませんよ。

Gにつづく

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