◇河正雄コレクションの意味とメセナ精神◇

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河正雄コレクションの意味とメセナ精神

 河正雄コレクションの意味とメセナ精神について語ろうと思う。

 全南霊巌は父母の故郷である。母は84歳で健在だが、父は29年前64歳で亡くなった。1928年、父が16歳の時に日本に渡り、1939年私は東大阪市で生まれた。我が家の在日の歴史は現在、孫の代まで76年となった。

 私が生まれた1939年は第2次世界大戦が勃発し、創氏改名が強要され、強制連行が法的に強行された歴史的な年である。戦争と植民地政策の苦渋の中で生まれた私は祖国の運命に翻弄されながら在日での64年間、その歴史と記憶を生涯忘れず、平和に拘り続けて生きてきたのが私の人生である。

 美術との関わりの記憶は秋田県生保内小学校2年生の時からである。小学時代は生保内の風景や梵天祭、運動会、学芸会、盆踊り、田植えなどの行事や風俗などをよく描いた。幼かったその頃が無性に懐かしく、夢があり、楽しかった時代ではないかと今、しみじみと思う。

 中学に入って絵画部に入り田口資生先生の指導を受けた。画用紙や絵筆、絵の具などを無料であてがってくれ、自宅に呼んで食事までご馳走してくれた。好きなように、のびのびと自由に描けと誉めてよく指導してくれた。私の人格形成において大きな影響を受けた尊敬する先生である。先生の指導のおかげもあり、仙北郡の写生大会では毎年入賞する事が出来た。

 美術が持つ意味と、生きることの自覚を強くしていったのが中学時代である。人間を作る教育の持つ意味がここにあると私は思っている。

 秋田工業高校へ入学して絵画部を創設した。質実剛健の校風で絵画部創設の時は女々しいとからかわれたが30余名の部員がすぐに集まり、文化部を活性化させたのは私の誇りである。

 秋田市内高校絵画連盟の会長を務め県展では高校生で始めて受賞し、卒業の時は生徒会功労賞をいただいた。高校時代は意気に燃えて学び、青春を燃やした。多感な幼少期、青年期に良い先生と出会ったこと、学んだ学校の環境が良かったことの幸せを今、噛みしめている。

 子供の頃に朝鮮人だといって良くいじめられ差別されたであろうと同情に近い質問を良く受けた。私には面と向かっての、そのような記憶や経験、感情がなかった。私が率直に語ると質問者は納得のいかない表情を見せる。私は朝鮮人としてではなく、人間として生きてさえいれば認めてもらえるのが世界であると、秋田で学んだと自信を持って言える。

 高校卒業後、画家になろうとして東京に出た。そして在日朝鮮文芸同美術部に入り在日の作家(゙良奎、全和凰、宋英玉、金昌徳)らと出会った。日本アンデパンダン展に出展したりもしたが、母の強硬な反対で画家になる夢は放棄せざるを得なかった。画家などは頭の狂った人のやることで生活は成り立たない、飯は食えない、河家の長男が画家だなんてとんでもない事だと言うのであった。母は冷徹に私の進路を阻んだのだが、幸か不幸か今の状態を思えば吉であったと母に感謝するのみである。

 24歳の時、事業を始めたところ上手く軌道に乗せる事が出来た。その利益を基にして美術品のコレクションを始めた。ある時、私の好きな向井潤吉の絵の隣に全和凰の「弥勒菩薩」の絵があったことが在日の作家の作品をコレクションする契機となった。全和凰の絵を通して在日同胞作家達との感動的で、私の人生を決定づける出会いとなったのである。

 当時、在日の作家は日本、韓国美術世界において、存在認知、評価を受けないブラックホール、死角であった。だから在日作家の作品をコレクションするということは、価値のない、金にもならない、最終的にはゴミ公害になるであろうと言われたものだ。私は在日の作品の中に我が民族と韓日の歴史の記録、証言、資料となりうる貴重な芸術作品であると確固たる信念を持ってコレクションを始めたのである。いつの日か、我が国が統一されたら、国や民族の宝、文化財になるという信念からだ。その時の私の感性は、視覚と視点において進むべき道を探し当てたのだとも言える。

 私は1982年に全和凰の画業50年展を東京、京都、ソウル、大邱、光州と韓日の巡回展を開いた。画集を発行し、初めて内外に在日作家の存在をアピールした。韓日の美術界に在日という文化を担う画家達の存在が、あったのだということを認識させた歴史的な展覧会であったと、内外から評価を受けたのは言うまでもない。在日に文化があることを認識させた文化的事件であったともいえる。

 在日同胞の作品群をコレクションする動機はもう一つある。戦前、私が育った秋田県田沢湖周辺では国策によるダム建設、水力発電所建設が着工された。父母がその工事で働くために私は共に秋田に住むようになったのである。戦局が悪くなった日本は労働者を朝鮮から強制連行による動員を法的に施行した。その数は、田沢湖周辺で2000名にも及ぶといわれる。寒冷地における、危険が伴う突貫工事、そして食糧不足による栄養失調などで犠牲者が数多く出た。

 私はその犠牲者を慰霊するための「祈りの美術館」を田沢湖畔に建立しようとの計画を建てた。その計画を田沢湖町に相談したところ、田沢湖町は観光のためにも、志しも良い事であると賛成してくれた。美術館の計画を推進してから数年後、韓日間の外交問題として慰安婦、挺身隊、強制連行などの戦後補償問題がクローズアップされ、韓日関係がギクシャクしだし雲行きがおかしくなってきた。それから田沢湖町は予算の問題と言うことで、美術館計画から撤退していった。丁度その頃、光州市立美術館が創立(1992)されたのである。

 光州との御縁は1981年からである。在日1世、全和凰画伯の画業50年展開催準備のため私は光州を訪れた。光州事件の翌年のことで、市内の惨憺たる状況を眼にした。日本で事件の経過をTVや新聞で知り心を痛めた。その時の市民の人心は荒廃しており、美術や芸術に関心が届かなかった頃である。

 私は1993年、久しぶりに光州に立ち寄り、友人の呉承潤画伯と会った。その時「昨年光州に市立美術館が出来たので遊びに行こう。」と誘われた。そして「1つお願いがあるんだ。訪問記念に1〜2点、あなたが持っている美術作品を寄贈してはもらえないだろうか?」と請われた。車鍾甲美術館長にお会いしたところ、「あなたが2〜3点寄贈して下さるそうですね。」と言うではないか。そうしている間に美術館の2階の第4展示室に案内され「この部屋をあなたの記念室にしたいので、あなたのコレクションを寄贈してほしい。」と言われた。そして「オープンにこぎつけるまでに2年間、美術館に収蔵品がないので全南や国内の画家達に作品の寄贈を頼んだが、集まったのは百数十点でした。これでは美術館の機能や運営が果たせない。助け、育ててほしい。光州の文化発展に力を貸してほしい、そして光州を愛してほしい。」と言われた。

 私は車館長の、この言葉で人生の大きな決断をする事にした。私は青春時代に社会に奉仕し、公益に寄与するという哲学を持ち、決意し使命を持った。そして、その使命に生きた自己の存在を光州に賭ける事にしたのだ。それは人生の意味、進路の大きな選択である。私は、私の生涯をかけたコレクションを光州市立美術館に寄贈することを決意したのである。「あなたに頼みたい、あなたに助けてほしい。」と言われたことの意味を考えて下されば私の誇りが判るはずである。

 第1次1993年212点、第2次1999年471点。本日、2003年7月21日は第1次寄贈から満10年となる記念日である。本日第3次寄贈として1182点を寄贈します。これにより合計1865点となります。第2次寄贈以降の4年間に37回に及び美術館に送り続けた成果である。これには一寸した誤報があったことを打ち明ける。私は1次、2次を合計して決まりよく1000点になるようにしたいと希望を述べたことが「河さんが1000点を追加、第3次寄贈をする。」と新聞で報道された。

 結果として誤報にならず嬉しい結果になったことで胸を撫で下ろしている。また第3次寄贈作品の中には32人の作家達が私の寄贈趣旨に共鳴され、無償、または制作費のみの有償で作品をメセナ精神で提供してくれたことをご報告し感謝の意を表する。

 私がメセナ精神について光州で初めて語ったのは1982年のことである。その時メセナとは何であるかと新聞記者に質問を受け説明した経緯がある。メセナ活動とは企業が社会から得た利益の1部を文化芸術活動に見返りなく支援、援助し、潤いのある文化社会を作ろうという活動である。私は個人でもメセナ活動をして社会に寄与貢献しても良いという考えを述べた。母校に図書や彫刻のモニュメント寄贈、在日同胞の文化芸術活動の支援など私のメセナで光州の盲人福祉の向上、光州の文芸振興に役立ってきたことを私は誇りにしている。

 過去に、第1次、第2次の時寄贈された美術品の価値が幾らであるか、数量と金額が話題になった。またこれらの価値はゴミのようなものであると神経を逆撫でするようなことを言う人まで現れた。著名な光州の元老作家は「ゴミもこれだけ集めれば立派な宝だ。」とも言った。両極端な価値評価でひどいものであったが、ゴミであるのか、宝であるのか、寄贈を受けた光州市民の英知と見識が問われる問題であると思う。

 作品は社会のものであり自己の所有、愛玩するものではない。美術品は公に供されるものであるという理念がわかれば理解されることである。またこれほどの数量と価値のある作品を送るにあたって惜しくはなかったか、勿体なくはないかと尋ねられたことがある。例え1枚でも勿体ないなどという気持ちを持っていては何も出来ないという事に人々は気付いていない。「助け、育ててほしい。光州の文化発展に力を貸し、そして光州を愛してほしい。」と言われた人間の誇りを守るために純粋で誠実な心で、賊でない証しの為に寄贈を黙々と10年間続けたのは、公に対する揺るがない信念からである。

 光州市立美術館が良い美術館になる為には充実したコレクションを持たねばならない。コレクションを充実させるために努力(購入等)をせねばならない。方向性を持った作品の収集こそが美術館の見識と質が問われる。そして殆どの展覧会が方向性を持ったコレクションを中心とした独自の企画で進められることが望ましい。それらをどの様に結合させてより良く見せていくかという研究が重要である。現代のアーティストに於いては、企画のテーマは心に留める関心事の一つである。そのテーマをもとに過去と現代の作品の中から構成した企画、他のモデルや真似ではなく、どこの都市でも不可欠になっている存在あるものが必要なのである。

 河正雄コレクションは光州市立美術館の常設に留まらず、広範囲に国内外への特別プログラムとして巡回させ、多くの人々にこのコレクションの意義を訴え、分かち合いたいという意向を持っている。コレクションの巡回によって、他の美術館とも提携する様々な方法を考える。互いの発展のために長期的な協力関係を如何に構築していくかという事が重要な課題である。活用と展覧、これは光州市立美術館に課せられた義務の一つであると考える。また、河正雄コレクションの幅広さを一つのまとまりの中で見て探求してもらう体験をする素晴らしさを観客達に保証する責任があると思う。

 韓国(光州)がまだ、きちんと「美術の形」が定まっていないからといって欧米式を盲従する必要はない。美術館独自のスタンスを明確にし、美術だけでなく、あらゆる文化の現象が保存研究の対象になるという意識とシステムが備わる美術館づくりをすればよい。個人の作家の充実したコレクションを基本にした美術館、評価の定まらない埋もれた作家を発掘する仕事等、テーマ的なものを目標とした良質なコレクションをもって、企画展や常設展という分け方のみでない堂々としたコレクションのみで成立した美術館づくりが良いと思われる。そして美術館同士の効果的に機能するネットワークを構築していく事で、より質の高い展覧会や常設展示が行える。

 20世紀に築いた勢いとバイタリティ、質の高さをいかに21世紀におけるプログラムに生かすという課題と優秀な企画スタッフ、献身的な行政メンバーによるエキサイティングかつ的確な問題提起により光州市立美術館はその存在と真価を世に問わねばならない。好きになれる都市、幸せになれる都市、存在感のある都市に光州市立美術館は輝いてほしい。

 種を蒔き、木を植える事は容易いが、これを育み花を咲かせ、実がなるまでには時間と弛まぬ努力と精神力が必要とされる。特に文化芸術においては言を待つまでもない。1人の人間が40年をかけて集め、美術を愛し、美術に全人生の命をかけたコレクション、その全てが光州市民のコレクションであるという真実が全てを語る。

 河正雄コレクションの意味について市民の皆さんに考えていただきたい。私のコレクションのコンセプトは「祈り」である。平和への祈り、心の平安への祈りである。愛と慈悲心に溢れた祈り、犠牲となった人々や虐げられた人々、社会的な弱者、歴史の中で名もなく受難を受けた人々に向けられた人間の痛みへの祈りである。韓日の痛みの歴史の中で在日に生まれ、在日に生きた私の心の事柄、持ち方、精神の出来事である事を皆さんは確認されることと思う。

 コレクションを3回に渡って光州市立美術館に作品を寄贈してきたのは、若かった時の画家の夢を放棄した為ではない。その夢の実現のため河正雄が生涯を語る一枚の作品として描くような気持ちでコレクションをしてきたのである。

 光州市立美術館には「祈り」という河正雄の作品が常設されているのだと記憶して下されば幸いである。私は光州市立美術館に寄贈されたコレクション、1865点の作品1枚1枚が花であると考えている。この花が咲き、平和への祈り、幸福への祈りを私と共にしていただければ、これ以上の喜びはない。光州市民の皆様も河正雄コレクションと共に社会に、公益のために咲く花の一輪になって光州市立美術館を助け育てて、ひいては光州を愛して下さることを祈っている。

 光州は芸郷、義郷、味郷の都市として内外に認識されるようになった。私はここに加えて1980年代、受難を受けた痛みを癒すコンセプトを持った都市、平和と人間、弱者に優しく温かいヒューマニティックな「祈り」をテーマに世界にメッセージを発する、精神性豊かな都市になってほしいと願っている。

「人間に優しい都市光州」の創造は世界から共感をもって愛され、不偏の価値を認知されるものと信じる。光州市民が大変なときに私の心が役立ったこと、市民から歓迎されたこと、無償の愛が通じたことを人生最大の喜びとしている。光州広域市の無窮なる発展と、光州市民の平安と幸せを心から祈っている。

光州市立美術館にて第3次作品寄贈記念講演(2003.7.21)



メセナ
芸術文化擁護・支援を意味するフランス語。
古代ローマ皇帝アウグストゥスに仕えたマエケナス(Maecenas)が詩人や芸術家を手あつく擁護・支援したことから、芸術文化支援をメセナというようになった。ただし、現代の企業メセナにおいては、企業のイメージアップ・企業文化の改善・社内での連帯感・顧客との新たなコミュニケーションなど、長期的かつ間接的なメリットを求めることが企業メセナの当然の方向性である。日本では1990年の企業メセナ協議会の設立に際し、テレビ番組の協賛の意で使用されてきた“スポンサー”という英語ではなく、フランス語のメセナを採用したことから、メセナは、企業がパートナーシップの精神にもとづいて行う芸術文化支援をさす言葉として知られるようになった。

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