◇「明日の太陽像」に祈りを込めて◇

 

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 この度母校・秋田工業高等学校創立100周年を記念して「明日の太陽」ブロンズ像を寄贈するにあたり、私の恩師松田幸雄先生、山方攻学校長、東海林正隆・創立記念事業実行委員会委員長様を始めとする学校及びPTA、生徒会役員並びに実行委員会の皆様、同級生の近藤収君、そして彫刻家加藤昭男、鋳造家岡宮紀秀両先生の御臨席の元に除幕式が執り行われましたことは、私の大きな喜びとするところです。
明日の太陽像設置にあたり工事を請負われました株式会社瀬下建設並びに株式会社寒風の皆様にはご苦労をおかけしました。
2002年7月、お盆のことです。東京地方は7月15日がお盆です。父の墓参りの帰り道に、私が住んでいる川口市の岡宮美術鋳造の工場で「明日の太陽」の作品を製作していた加藤先生と偶然にお会いしました。私はその作品を見て閃きました。太陽に向かって一番鶏が「おはよう」と元気よくあいさつしている。今日一日一生懸命働くぞ。勉強するぞと太陽に誓っている。そして太陽の恵みに感謝している。なんと健康的で前向きな姿であろうか。勇気づけられる、励まされる、平和なる祈りの像であると感じたからです。この作品を母校の創立100周年を祝うモニュメントにしたら良いのではと心に止めたのです。それは電撃的な直感でした。その作品との出会いは芸術がもつ感性がもたらしたものであると思います。
私は過去に生保内小学校中庭に「陽だまりの像」、生保内中学校校庭に「憧憬の像」と、母校の記念すべき年にモニュメントを寄贈しました。2003年春になって韓国朝鮮大学校から美術学名誉博士の学位を授与して下さるとの報せが入りました。私の最終学歴は秋田工業高等学校卒業ですが、私の母国である韓国の大学から私の業績が認められ、このような栄誉を賜ることは、大変光栄なことであります。
そこで「明日の太陽」像を秋田工業高等学校だけでなく韓国の朝鮮大学校にも報恩の想いを込めて送ろうと決心するまで時間はかかりませんでした。
戦後まもない、昭和23年に大阪から田沢湖町に移り住みました。当時は食糧も乏しく、みんな貧しかったけれども助け合って生き学んだこと、秋田での子供時代、学校時代が今の私を育んでくれたと思うとありがたいことでありました。
特に私に美術の世界を開いてくれ、人生の出発点となったのが秋田での学生生活であります。また私は日本で生まれた在日の韓国人でありますので、私の父母の故郷である韓国の大学とが「明日の太陽像」で結ばれ、日本と韓国とが近く親しくなって友好交流がなされ兄弟のように仲良くなることを願ったからです。
すぐに両校へ同じ日に、後に続く研究学徒に未来への希望と活力を与える象徴として「明日の太陽」像の寄贈意思を書類で送りました。それから10日後に両校からの寄贈受諾の返事が全く同じ日に届きました。この日は私の心が通じた幸運な日でありました。
すでに朝鮮大学校には昨年の創立57周年記念の日9月29日に寄贈し、本日は秋田工業高等学校の除幕式となりました。本日に至るまでの間、各方面の皆様方にはご指導、ご鞭撻、ご配慮を数多く賜りました。そして加藤、岡宮両先生には物心両面から御後援を頂き除幕式を無事に迎えることが出来ました。みな皆様方の英知と英断、そして先見を誇りに致します。皆々様の温かいご理解とご支援を心からの感謝と、敬意を表します。本日この喜びを皆様と分かち合えることは幸せであります。
先ほど報恩の想いで寄贈する決心をしたと申しました。在学中、恩師や同級生達から、どんなに励まされ教えられたかわかりません。私は秋田工業高等学校を卒業する際に、民族的アイデンティティを持って、自分らしく、人間らしく生きるのだと固く決心し社会に出ました。それは私が在日韓国人2世であり、日本の秋田、この地に育まれた「人間」であるからです。
社会に出てからも、今日に至るまで辛いことは数多くありましたが在学中の母校の恩師や友達の温かさは一生忘れることはありませんでした。人生には数多くの難関、峠と谷と山があります。どの峠も谷も山も険しく厳しいのが人生であります。恨みやつらみ、不平や不満を持って生きるのではなく、母校から受けたその恩徳に感謝の心を持って生きるのが正しい生き方であると、私は自分に言い聞かせて人生の難関を越えて参りました。
特に母校の第9代校長、大井潔先生の恩恵には頭を垂れます。我が母校を卒業した昭和34年は鍋底景気といいまして日本は最悪の経済状態にあり、就職もままならない状況でした。
私は卒業間近まで就職先が決まりませんでした。担任の青海磐男先生が大井先生と相談され私の保証人になって下さり、やっとのことで母校の先輩が経営する会社に就職先を決めて下さいました。そのように陰で私の知らないところで先生方が私を守って、私が前に進めるように心を砕いて下さったことを卒業後10年経って知りました。
大井先生にはお目にかかったことも、教えをいただいたこともなかった私は、先生とはこんなにもありがたく尊いものであると、その時心からの感謝の涙を流し、いつかその恩徳に報いる日を祈って今日、この日を迎え心が晴れる思いであります。
「人に施せども慎みて念ふこと旬れ。施しを受けなば慎みて忘れること旬れ」弘法大師空海様の教えを、その時実体験として学んだのであります。
父母、祖国、故郷、母校、恩師、友人、後輩達に報恩のメッセージを、母校に、この「明日の太陽」像寄贈に込めたことは人生の選択の一つとして正しかったものであると確信します。
「子供の頃日の出に向かって手を合わせ祈っている人の姿を見かけたものだ。輝きを増しながら地平線から昇る朝日に限りない力と神秘を感じたからだろう。この頃の日本は少し自信を失い、希望と活力に欠けているような気がする。明日又昇る太陽のパワーを身につけ、住みよい世界を作ってもらいたいものと念じつつ、製作した。」と作者の加藤先生がメッセージを下さいました。私もそのように念じてやみません。
また私の母は現在85歳で健在でありますが、大変信心深い人です。朝起きるとコップに一杯の真水を捧げて太陽に拝礼します。照る日、曇る日関係なく御天道様は有り難いものだといい、「今日陽が当たらなかったと言ってクヨクヨするな。今、日陰にいる運でも太陽はグルッと回って必ず照らしてくれるから心配するな。御天道様は、誰にでも不公平などはしない。」と言って、信念のように敬虔なお祈りをします。そして「悪いことだけは絶対にするなよ。全て御天道様はお見通しだからね。」と口癖のように私達子供を戒めました。
母の祈りと願いはただ一つ、子供達や孫達が皆健やかで無事でありますようにということ。忍耐と努力こそが幸せを掴む原動力であると母の祈りは有り難い限りで頭が下がります。明日の太陽像は母の祈りでもあるのです。決して人生を諦めてはいけないよ。挫けず、堪えて忍べ、親が子を想う愛の心が秘められているのです。
彫刻の台座は韓国の花崗岩、赤御影石を選び韓国で製作いたしました。母校が「明日の太陽」像を通して、私の祖国である韓国と朝鮮大学校との縁を結ぶ機縁となることを願ってのことです。
在学中に多くの想いでを作り明日の太陽像を記念のアルバムに残されますように、明日の太陽像を愛し、皆さんの心のシンボル、支えとして下さることを祈ります。
朝の登校のとき、夕方の下校のとき、元気よく「おはよう」、「さようなら」と声をかけて下さい。そして悩みや苦しみがあったとき、そっと明日の太陽像に向かって、心を打ちあけ、語りあって下さい。きっと皆さんに勇気と希望を与えてくれることと私は信じています。
本日、私が皆様に話しましたことをまとめます。
これは65年間今日まで生きた私の人生の悟りでもあります。
まず、感謝の心を忘れないようにということです。
父母に、先生に、母校に、故郷に、社会に、そして今生きていることにであります。
次に忍耐、努力することが人生を豊かにし、幸せをもたらしてくれると言う事です。
くじけず日々、一歩ずつ前に進んでいく心がけこそが大事であるのです。
そして、青春の時、青春時代に大きな夢を描き希望を抱くことはこれからの人生の道標となることでしょう。
どんなに遠大なる望みでも自由であなた方のものなのです。明日の太陽像はみなさまを温かく見守ってくれるでしょう。そして皆様の頭上に輝くことは間違いありません。
後輩達が質実剛健の校訓の下、歴史と伝統を受け継いで、文武両道の気概を発揚され工業教育を先導する世界の中の名門校として、母校が明日の太陽に向かって更なる躍進と発展を祈念します。母校の創立100周年を心より祝賀申し上げます。

(2004.9.22 秋田県立秋田工業高校にて全校生徒に明日の太陽像披露講演)

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