◇母と二人で◇

リンクアイコン日記「二つの祖国・二つの故郷 ホームへ

 2004年7月21日は甲府と東京は40度を超す猛暑、炎暑。その日、3月より2度に渡って両膝の手術を受け、リハビリも終わって歩けるようになった母と清里(ちなみに清里の気温は29度)の家のテレビで「冬のソナタ」を見ていた。
 「昔、韓国では5〜6歳になったら男女は顔を合わせ話をすることすら出来ない程、男女間の社会規範は厳しいものだった。14〜15歳の時、霊岩の村で私に思いを寄せる若者がいて、自分もその若者に好意を抱いていた。畑で農作業をしている時や、河原で洗濯をしている時に遠くの森の中から、その若者が小石を投げて、ここにいるよと知らせてくれたが顔を合わせることすら出来なかったものだ。もしその若者と結婚していたらいまはどうなっていただろうかね。」と頬を赤らめて初恋の話を初めてしてくれた。「冬のソナタ」は老いた母に青春の日々を想い出させたようだ。
「その若者と結婚していたら、日本でこんなに苦労しなくて良かったかもしれないね。そうなれば私も生まれていなかった事だから、どちらが幸せだったと言えるだろうか。」と話したら「お前が生まれたから、子供を頼りに今日まで生きてこられた。今が幸せだと思うよ。」と母は言った。
 そして「お前が4歳の時、日本に連れて帰ったが日本で生きることが出来ないと困るから、親戚の叔母がお前だけは霊岩に置いて行けとしつこく言われた。しかし子供だけは放さないと日本に連れてきた。栄山浦から闇の艀に乗って日本に来たが、船底にしがみついても転げ回る程に海が荒れて死ぬほど怖い思いをした。麗水に着いたところ、お前の姿が見えない。見知らぬ男と手を繋いで行くのを見つけて、何で連れて行くのかと言って必死の思いでお前を取り返した。」と、にわかに信じられないような話をした。当時、人さらいが横行し、子供を取られても親の責任だということで、何の手だてもできない殺伐とした時代であったという。
 「霊岩にいた時には虎がよく出て人を襲ったものだ。夜中に家畜の豚や犬などを襲い月出山に背負って逃げていったが、あんな恐ろしい光景は一生忘れられない。」とも話した。
 今から60〜70年前の話であるが、母にとっては一生忘れられないことである。今となっては、信じるのは私一人ではなかろうかと思うほどの昔話になってしまった。過ぎ去った時代の流れは個人の人生をも翻弄し無常であるとも思う母の話であった。
 ニュースの時間になり、北朝鮮拉致被害者の曽我ひとみさんが家族を伴ってインドネシアから日本に帰られたという報が流れた。アナウンサーが「ジェンキンスさん」「ジェンキンスさん」と何度も読み上げるのを聞いた母が、「アメリカでも私と同じ呼び名があるんだね。日本に来られて幸せな人だね。昔の朝鮮人は可哀想であったよ。」と言った。母の名前は金潤金(キン・ジュンキン)である。入院している際にジュンキンさん、ジュンキンさんと呼ばれていたので、自分と同じ名前をアナウンサーが話しているのだと錯覚したらしい。
「お母さんの名前は金(キン)が潤う(ジュン)金(キン)さん。ジェンキンスさんより、ずっといい名前だと思うよ。」と私が言うと「親は本当によい名前を付けてくれたものだ。足が良くなったら親の墓参りに行きたいよ。」と故郷の霊岩に想いを馳せた。母とそんな会話をしながら庭に目をやると純白のムグンファが一輪ほころび萩の花も咲き始めていた。そしてトンボが舞っていた。蝉時雨の清里は秋が早や、忍び込んでいるようだ。