◇アカシアの街、小坂であったこと◇

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浅川巧の生誕地(山梨県高根町)では浅川伯教・巧兄弟を顕彰する資料館建設が着工された。今夏最も嬉しいニュースである。

 一昨年の事であるが、満開の桜の季節に、浅川巧の足跡を求め大館を訪ねた。

 植民地政策下の韓国で民芸の中に朝鮮民族文化の美を見つけ出し、韓国の人々を愛し韓国の人々から愛された日本人林業技手。日本では浅川巧という名前さえ知られることがなく、今もソウル郊外忘憂里の共同墓地に眠る。その墓は韓国の人々によって守られ続けてきた。墓の傍らに建てられた碑文はハングルで「韓国が好きで韓国を愛し、韓国の山と民芸に身を捧げた日本人、ここに韓国の土になれり」と刻まれている。

 高校時代、私は浅川巧についての安倍能成が書いた「人間の価値」なる文に触れ、その人柄と人格に憧憬を持つようになった。1909年、浅川巧は大館営林署に就職し、そこから1914年韓国に渡ったと彼の日記に記述されている。浅川巧が秋田杉の美林の中で過ごした4年余りの青春の地、大館は韓国での偉大な功績を残すに至った原点の地である。今は日に一便の鉱山からの搬送に使われているという小坂鉄道に沿って茂内駅という所まで浅川巧の足跡を訪ねた。無人の駅構内には「小坂まで8キロ」という案内板があった。秋田工業高校時代に小坂町出身の学友、村木貞夫君が「夏休みに小坂に遊びに来ないか。十和田湖にも案内する」と誘われたことをこの時懐かしく思い出した。

 その日、花岡七ツ舘の信正寺、そして花岡鉱山を廻って共楽館跡を訪ねた。秋田市に住む在日一世の李又鳳さんは強制連行により花岡鉱山で働かされた。花岡事件の時、逮捕され針金で吊され残酷な拷問を受けている、中国人労働者の地獄の現場である“共楽館”での出来事を李さんから聞かされていたからだ。共楽館は取り壊されており名のみの虚しかった歴史の事実を語っていた。

 1997年の事である。野添憲治(作家・秋田県朝鮮人強制連行真相調査団事務局長)さんから秋田魁新報の記事が送られてきた。小坂鉱山(注1)で作業員宿舎を経営していた「異国の地で逝った証言者」金竜水さんの、冥福を祈り追憶する文であった。

 「太平洋戦争(注2)中の小坂鉱山には、朝鮮人が三百八十人ほど来ており中国人、連合軍捕虜等も厳しい労働をさせられていた。連行されてきた中国人は“康楽館”に収容され六十一人が死亡し、朝鮮人は約三十一人が死亡したと記憶している。寺の沢の共同墓地に埋められていたが、日本の敗戦後、親類とか知人が遺骨を持って帰っていったが、身内の無いのは残された。何体が残っているとははっきり言えないがかなり残された。」という故人の証言であった。野添さんはその墓を確かめようと、金竜水さんの案内で寺の沢に行ったが、ササダケが人の背以上に茂っていて、かき分け捜しても見つけることが出来なかったと、記事には書かれていた。

 数年前、わらび座に泊まる機会があった時、茶谷十六さんが“康楽館”の話をした。「いま小坂に残されている芝居小屋の“康楽館”は秋田が誇る文化財である。そこでわらび座の公演が行われているので、一緒に見に行かないかい。」と誘われたことがある。雪深い秋田に明治時代の木造の芝居小屋が現存していることも驚きであったが、歌舞伎も上演されると聞いてからは小坂の文化的風土に好奇心が湧いた。しかし秋田県朝鮮人強制連行真相調査団会報(以下会報とする)第七号、小坂町出身者の岩城洋一さんの「薄れゆく記憶の中から」の文により、好奇心だけの想いではなくなった。

 歌舞伎公演の芝居小屋として明治のロマンを求めて“康楽館”を全国から観光客が訪れてはいるが、ここがアジアの隣国から強制連行されて来た人々と、捕虜の大収容所であったことは露知らずであったからだ。

「露天掘(注3)のある元山は鉱山跡地である。元山・不動沢の奥地、大谷地、山神社下の谷間の掘建小屋に押し込められ、相内、長木鉱山に強制連行の労働者は駆り出された。寺の沢の寺院前に整然と列んだ鉱山従業者の家族の墓地とは別に、遺骨の殆どは笹むらの奥地に散らばったまま放置され、確かめようにも確かめられない状態になってしまった。戦争による犠牲であった、強制連行の実態を証拠づけるものが、見失われている状況を見逃すわけにはいかない。」と言及していたからだ。会報によると朝鮮人強制連行者は小坂、相内両鉱山で一〇七〇人で犠牲者の人数は不明であると報告されている。

 私は元山・不動沢の奥地、相内鉱山の近くまで行ってみたが鉱毒水が不気味に澱みあとは夏草だけが繁る荒涼たる風景で山は静まり返っていた。

 今年になって村木君から「ふるさと訪問小坂七夕を観る旅」の案内が届いた。想いが深い小坂へ念願の旅となった。東北は旧盆の帰省客と四大祭り見物の団体客の往来で、この季節が一番華やぎがあるはずなのだが、到着した小坂にはそれが何故か感じられなかった。出迎えられた町長さんが「昔、鉱山が盛りの時は三万近くの人がいたが、今は七千人程度になってしまった。鉱山に群がった人が去り残った物は過疎、人心と山の自然の荒廃だけであった。」と寂しく話された。

 移築中であった町指定有形文化財旧小坂鉱山事務所を見て、アカシア並木の明治百年通りにある康楽館での芝居見物となった。その際、康楽館が二億数千万円をかけて創設時の姿に修復されたとの説明があった。同じ時代の芝居小屋である大館の共楽館は取り壊されたが小坂の康楽館は保存された意味の違いはどこにあるのだろうか。とどのつまり、歴史と文化に対する価値観と認識度の違いではないのかと思った。竹下首相がふるさと創生と称して全国一律に一億円をばらまいたが、何も残る物がなかったというのが実際の評価であろう。康楽館を残した小坂町の文化行政に未来を観る見識があったと私は称えたい。

 昔懐かしい浅草剣劇を公演するのは、ここ康楽館のみという触れ込みであったが、座長の伊藤元春には確かに古き時代の良い心が残っているようであった。「遠くから康楽館にようこそおいで下さいました。小坂を忘れないで下さいね。また必ず来て下さいね。」と三つ指ついての挨拶に心がこもっていたからだ。久しぶりに挨拶らしい挨拶を受けたことが、何よりも新鮮で情を感じた。彼には康楽館を守り育もうとする誇り高い、ふるさと小坂への愛情が満ちていた。

 康楽館は、日本に残されている唯一の芝居小屋というだけの存在ではない。歴史上の証人、文化の舞台であった。在日や祖国の人々も広く知らねばならないし、共有されねばならない文化遺産であることを、深く認識する必要がある。私は康楽館での公演時間を、五感の全てを以て涙にむせび、感慨深く、過去の不幸に想いを寄せながら過ごした。しかし後に見学した町立総合博物館での展示物や町の資料、観光パンフレットのどこにも過去の不幸が言及されていない。この二十世紀、小坂鉱山や康楽館で何があったのか、大事な歴史の事実が抜け落ち記録されていない事は、残念で寂しい限りであった。小坂が明治のロマン観光立町で生きるためにも、過去は記録されねばならないし、歴史の責任を果たすことが国際的認識であり、未来に希望と展望をもたらすものと信じてやまない。

 発想を変え、マイナスをプラスにすることこそが、日本の国益であり先進国の範であるはずだ。二一世紀は文化の時代である。歴史文化遺産の宝庫であり、国際親善交流都市宣言をしている小坂町は、世界の小坂に飛躍することも夢ではないと思う。

 その夜、小坂七夕のハイライト、康楽館前には十五台ものねぶたの屋台が勢揃いした。同じ秋田県でも小坂は南部の文化圏で、私が育った仙北地方とは文化を異にしている。ねぶたの囃しハーモニカの演奏が入っているのも珍しかったが、小坂七夕のねぶた運行には、鉱山犠牲者の霊を慰める為の祭りという、意味があることが分かり私の心は慰められた。東北の旧盆の祭り、先祖供養とは一味違う鉱山街、小坂ならではの七夕祭りには意味があった。ねぶたの囃しと引き回されるねぶたの光りの中で、慰霊の心が天まで届き、諸霊がとこしえに安らかなることを祈った。

小坂七夕ツアーで思いがけぬ人と出会った。小坂町で暮らしたことのある在日同胞二世の鈴木資也さん。田沢湖町生保内での私の生活の話を聞いて、懐かしそうに話しかけてくれた。「昭和十二年から十四年頃、父が田沢湖畔の工事現場の監督をしていた。その工事が終わって木曽谷の発電所工事現場に移った。田沢湖にいるとき、小学校は君と同じ生保内小学校に通った。草鞋を履いて綿入りの和服(地元で言うドンブク)は、手すりがテカテカに光って汚かったことを覚えている。私は子供だったので記憶は薄いが、姉は当時の田沢湖畔の工事現場であったことをよく知っていると思う。」と懐かしそうに語った。思いも寄らぬ生き証人が現れたことで姫観音の史実がまた明らかになる。歴史は記憶されねばならない。歴史に責任を持つことが明日の善隣友好の礎になる。過去を清算して、新しい世紀は真の兄弟にならなければならないという、希望を抱いて私は生きてきた。不幸な歴史という事実はもう消し去ることは出来ないが、過ちを正し互いを理解し合うことで障害を乗り越えることは可能なはずだ。始まりや経過は決して良かったこととは言えないが「終わりよければ全てよし」で行こうと2000年往く秋田の夏空の下、そう想った。

 私は2001年9月5日、聖天院でのお施餓鬼法要に出席した。昨年11月3日は在日韓国・朝鮮人無縁仏慰霊碑の建立がなされた。その霊を慰めるためである。

 その席で偶然知り会った人がいる。「昨年の慰霊碑法要の時、河さんの式辞を聞きました。実は秋田の何処かは判りませんが、私の父も強制連行で日本に来たのです。中国やアメリカ人の捕虜と一緒の所だと言っていました。」と言った。私はその話に驚いた。「そこは秋田の小坂鉱山という所ですよ。昨年夏に行って来たばかりです。是非あなたのお父さんとお会いしてお話を聞きたいですね。」と話が進んだ。

 数日後、私は埼玉県東松山市のお宅に訪問した。私の訪問を心待ちにしてくれた様子で、耐えて生きてきた気骨と人生の哀感を、体に感じさせるお方だった。小坂での生きた証言をして下さる方が現実に現れるとは、思いがけぬ事で、この偶然に感謝の念を抱いた。そして早速、徴用で故郷から小坂まで辿り着いた経緯を語って下さった。

 「私の名は申鉉杰(シン・ヒョングル)、日本名は平山沃田(ひらやまよくでん)、故郷は慶尚北道盈徳(ヨンドク)郡知品(チプン)面。申家の長男として一九二三年(戸籍上では一九二四年)に生まれました。我が家に徴用の通知が来たのは一九四四年八月の事です。それは私に来たものではなく弟(当時十七才)に来たものでした。私は当時二十一才で、既に結婚しており娘が生まれたばかりでした。年端の行かない弟が可哀想だと、逃げて還ればよいと、代わりに私が徴用に行くことになったのです。

 知品面から六人、盈徳郡からは六十人ほどが集められ、行き先も報されぬままトラックに乗せられ、釜山から連絡船に乗りました。下関−上野−秋田−大館、そして着いたのが小坂鉱山でした。途中何度も逃げようとしたのですが、監督が厳しく逃げ出すことは出来ませんでした。私は鉱山事務所の上の方にある製錬所近くの忠誠寮の十畳ほどの部屋に、知品面から来た六人が一組になって入れられました。そこにはフェンスに囲まれた五棟ほどの寮が建ち並び、三〜四百人程が収容されており、出口は一カ所のみで、監督が出入りをチェックしていました。

 私の寮長は日本人で名前は忘れてしまった。副寮長は湯本さん、監督は重光さんと言い、どちらも韓国人ながら日本名を名乗っていました。副寮長はインテリで「ここはとても待遇の良い所」と逃げないように気を配っていましたが、あまり逃亡が相継ぐものだから、監督が捕まえてきては別室で袋叩きにして、二、三人は半殺しの制裁を受けて、部屋に閉じこめられた後、生死がわからなくなった者もいたようです。後日談ですが解放後、その監督は韓国に帰国したらしいのですが、小坂での同胞に対するひどい仕打ちが田舎で知れ渡ってしまい、いたたまれなくなって再び秋田に舞い戻って、暮らすようになったと噂に聞きました。それが事実なのか、また彼の生死はわかりません。

 一日も休まず三交代で八時間労働で働きましたが、仕事はそれほどきついとは思わなかったです。ほんの少し日本語がわかるというので、運輸部に配属されトロッコのポイント切り替えや、トロッコで溶鉱炉から出る銅のカスを捨てたり、鉱物を運ぶ仕事をさせられました。

 仕事の辛さよりも、お腹が空いてたまらなかったです。昼の弁当を持って仕事に出掛けるのですが、それを朝飯と一緒に食べてもなお、お腹が空いてひもじかったのです。おかずは塩漬けのイナゴだけで、おつゆは馬のモツ。韓国では馬を食べる習慣がなく、生理的に受け付けなかったのですが、空腹には勝てず、食べざるを得ませんでした。鹿角地方はリンゴの産地で、鉱山関係者がリンゴの皮を剥いて捨てたものを拾って食べたことがありました。

 当時捕虜が何百人も収容されていましたが、多かったのは青い服を着た蒋介石の国民党の者と思われる中国人、連合軍やアメリカ人の捕虜でした。中国人捕虜は可哀想でした。2〜300人はいたと思います。寒さと食糧不足の為に5〜60人は死んでしまったと思います。アメリカ人の捕虜は団結力と仲間意識がとても強かったのです。溶鉱炉の湯で火傷を負った仲間がいると、皆集まって守り助け合う。監督の憲兵が銃剣を突いて「集まるな、仕事をしろ」と威嚇しても、それに屈服しませんでした。康楽館が田舎にしては立派な芝居小屋があるものだと、その時は思っていたのですが、この人達の収容所であった事は教えられませんでした。

 私が今も気に懸かることは、同胞が落盤で亡くなったと仲間から聞いた事、慶州から来た李隊長は話し方や接し方が人間的で、我々はとても頼りにしていた人だったのだが、1945年1月か2月頃、思想問題で警察に連行されそれ以来、戻って来なかったことです。殺されたらしいと仲間内では噂しました。

 1945年7月初めに、私は小坂鉱山から逃亡しました。もやしのように痩せ細っていました。給料は強制的に預金させられており、わずか煙草5〜6本を配給されていたのみで、とどのつまりただ働きでした。以前、小坂に来ていた同胞の自由労働者が、もし、逃げてくる気があるならとここに来いと教えてくれた、高麗の飯場が唯一の逃げ場所でした。小坂から歩いて毛馬内駅に向かって逃げたところ、後ろからやって来た車を、一緒に逃げた者と手を拡げて止めました。相手も事情を察してくれたのか「俺にも昨日赤紙が届いた。逃げな。」と駅まで送ってくれました。好摩駅で仙台の空襲の為に逆戻りし、迂回して4日間何も喰わずに、水だけで埼玉県の高麗の地に辿り着いたのです。

 降りた駅前には天下大将軍、地下大将軍のトーテムポールを見たときは、ここは日本ではなく韓国に帰って来たのかと錯覚してしまいました。腹が減って、畑の野菜を盗んで食べていたところ、農家の人が飯場に報せてくれたので、リヤカーで迎えに来てくれ、日和田山の軍事トンネル工事をしている朝鮮人が、経営していた梅田組に連れて行ってくれました。着いてすぐに、その飯場で濁酒を一杯ご馳走になったのですが、そのまま倒れてしまい10日間も寝込んでしまいました。

 それから一ヶ月後には終戦となりました。同胞達は帰国して行ったのですが、私は体調が戻らず病院に半年間も入院していたため、帰国の機会を失い日本に留まることになったのです。初めは米の買い出し等をしながら生計を立て、高麗、川越、日高地方を転々とし、東松山市に落ち着き、現在は三人の子供や仕事にも恵まれ、幸せに余生を送っています。小坂でも高麗でも月や星を見る度に親や兄弟、妻や子供の事を想って泣きました。十二年前には初めて故郷を訪ね、大邱で暮らしている娘とも再会しました。」と語ってくれた。

 私は申さんの話を聞き終え「今、幸せに暮らしている」と聞いて安堵した。最後に高麗に足を向けたこと、高麗の懐で抱かれた生活が、幸せな結果を生んだのだと、もしかしたら高麗王の遺徳を受けたのかもしれないと、因縁めいた想いを抱いた。結果、終わりが良ければ全て良いのであると再び思った。

河正雄「韓国と日本・二つの祖国を生きる」明石書房(2002.3.25)



注1)小坂鉱山の歴史
小坂鉱山は、文久元年(1861年)に発見され金や銀を採掘していた。現在は小坂製錬として残っており鉱山跡は製錬所となっている小坂鉱山の元山も昭和21年(1946年)枯渇してしまい採掘を中止した。
その後探査の結果近くの内の岱に昭和34年(1959年)内の岱鉱床が発見され、小坂鉱山は息を吹き返したが平成2年(1990年)に内の岱鉱山も掘り尽くされ閉山となってしまった。
現在は、小坂製錬として金属製錬を行っている。
内の岱鉱山跡は、リサイクルセンターとして金属のリサイクル工場に生まれ変わっている

文久 元年(1861) 小坂村農民・小林与作、小坂鉱山を発見。金・銀を採掘 。
慶応 元年(1865) 南部藩経営となる。
明治 2年(1869) 明治維新政府、小坂鉱山を没収。(第一次官営)
明治 10年(1877) 南部家に経営権委譲。
明治 13年(1880) 南部家、小坂鉱山を政府に返上。(第二次官営)
明治 17年(1884) 藤田組へ小坂鉱山を払い下げ。
明治 20年(1887) 黒鉱発見。
明治 30年(1897) 小坂鉱山に電気導入。(県内で最初に発電し使用)
明治 31年(1898) 自熔製錬が開発され銅山となる
明治 33年(1900) 自溶製錬法確立。
明治 35年(1902) 黒鉱製錬の本格操業。
明治 36年(1903) 従業員 5,400人、採掘鉱石 213,098t。
明治 38年(1905) 上水道敷設。
明治 39年(1906) 大溶鉱炉完成。(当時:世界第一)
明治 40年(1907) 鉱産額全国一。
明治 41年(1908) 現在の製錬所奥の露天掘り開始
昭和 14年(1939) 露天掘りを終了
昭和 21年(1946) 坑内採掘を中止、坑内水より沈殿銅の採集に移行
昭和 25年(1950) 新鉱床の探査開始
昭和 34年(1959) 内の岱鉱床発見
昭和 35年(1960) 内の岱鉱山開始
平成 2年(1990) 内の岱鉱山枯渇により閉山

注2)太平洋戦争
太平洋戦争(たいへいようせんそう)は、昭和16年(1941年)12月8日(日本軍発表日)から昭和20年(1945年)8月15日(9月2日と見なす意見もある)の期間の、日本軍と連合国軍との戦争である。アジア・太平洋戦争、大東亜戦争とも呼ばれる。

注3)露天掘り
明治41年(1908)〜大正9年(1920)に行われた歴史的掘削。大正3・4年ごろには、その階段は15段余りもあり、約 3,000人が働いていた。採掘跡は、東西300m・南北750m・深さ150mで、日々の作業量は、当時世界の大事業であったパナマ運河に匹敵するといわれた。

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