◇小鹿島に残るもの◇
(ソロット)

リンクアイコン追記へもどる ホームへ

小鹿島(ソロット)に残るもの

 1995年第1回光州ビエンナーレが開催されていた時のことである。光州市立民俗博物館館長が「河さんはこの度、秋田のわらび座の名誉団長としてビエンナーレの祝祭公演を行ったが、どうしてこんな大変な仕事を引き受けているのか。」と聞いた。館長は祝祭公演の総責任者であった。

 「私は在日が生活の基盤であるため、韓国と日本の文化交流に於いて、美術に関心を持ってやって来た。このような祝祭には民俗芸能の紹介と交流こそお互いのルーツを知り、根の所で理解が深まり親しみが出ると考えたからだ。わらび座は私の故郷の秋田を代表する民族歌舞団である。

 日本は近い国でありながら遠い国であったのは、お互いにその根のところでの交流と理解が足りなかったのだと思う。韓国人は根のところで恨(ハン)を持って、日本人に対して偏見や誤解がある。偏見や誤解の面では韓国人に対して日本人も同じであると思う。私は韓国人に愛されている浅川巧のような日本人を尊敬している。立派な人格から学ぶことは民族や国にこだわる事はないと思っている。韓国人から愛され尊敬されている人は浅川巧一人でなく韓国にはまだ埋もれている日本人もいると私は見ているがどうでしょうか。」と答えた。館長さんは「そういえば戦前、日本人の癩病院の院長が小鹿島の地元の人から愛され尊敬されているという話を聞いた事があるが……。」と話された。

 私はその話に興味を持ち、小鹿島へ旅立った。1991年、日本の国立ハンセン病療養所多摩全生園を訪問し、癩患者の苦痛を学んだ際、韓国でも小鹿島に於いてハンセン病との闘いの歴史があった事を教えられたからだ。私の関心事は戦前に地元の人々から愛され尊敬されている日本人がどんな仕事をしたのかを知りたかったし、その人物に好奇心が強く刺激された為でもある。

 光州から小鹿島までは約120Km。島を目の前にした海辺は、海鮮の飲食店が立ち並んで観光地のような漁業の街であった。「小鹿島への連絡船が出るぞ」と急かされ乗船しようとしたところ、警官が三人やって来て私の乗船を制止した。身分証明書を見せるようにと要求されたので、パスポートを提示したところ「何の為に小鹿島に渡るのか」と質問された。「私は韓国でのハンセン病の患者達が、どの様に人権を犯されたかの歴史をこの目で確かめたいと思ったので来ました。」と答えた。不審が解けたのかやっと乗船を許された。

 乗船にあたり、私だけ取り調べをする事から異様に厳しい雰囲気を感じたので、同乗していた通勤者と思わしき中年の紳士に「何かあったのでしょうか。」と問い掛けた。「大統領選挙が間近で、最近アメリカのタイム誌の記者が取材に来た。貴方も選挙絡みの事で間違われたのではないか。」と言われた。何故タイム誌の記者が小鹿島まで取材に来たのか私には理解出来なかった。そう考えている間に島に到着した。

 小鹿島は一周15Kmほどの風光明媚な松並の美しい島である。島内の樹木は戦前、日本人が植えたのだといい、大きな樹林となって島全体が庭園のようであり、珍しい名木も繁り手入れも行き届いていた。

 私は早速、国立小鹿島病院の院長を訪ねた。何という偶然か、その人は先程渡し船で出会った中年の紳士であった。院長は私の故郷霊巌で、私設の総合病院院長も兼任されており、霊巌で私の事を聞いて知っているといわれ驚いた。人の縁の不思議さを嬉しくもあったが、同時に何処に行っても悪いことは出来ぬものだとも思った。院長は船中で、私の小鹿島訪問を訝しく思ったらしいが、話す内にすっかりうち解けられた。

 院長との面談中、坊主頭の長身の青年がお茶を持って入ってきた。「この青年はこの度の大統領選挙の候補者○○○氏の子息、△△△君です。」と紹介を受けた。その青年は国内で新聞やテレビなどで兵役を逃れたという事で、世論の糾弾を浴び渦中にあった本人であった。政治的な配慮から世評の目から逃れて、静かに身を慎み小鹿島で社会奉仕を勤めているとの事であった。「こんな淋しい島で今時の若者が患者達と暮らす事が出来るでしょうか。」と尋ねたところ「実は夜になると町に出て酒を飲み女と遊んでいるようだ。村民の噂になって困っている。」と答えた。初めてタイム誌の記者が小鹿島に取材に来た理由はこの事なのだと一人合点した。

 このような話の後、院長は私の関心事であった小鹿島で尊敬され愛されたという、花井善吉博士の事を話してくれた。

 全羅南道小鹿島慈恵院は1916(大正5)年2月明治天皇の下賜金で建てられた朝鮮唯一の癩病院である。1939年には収容患者数は6000人にもなり、毎日3〜4人が死亡した。“小鹿島に行く道は納骨堂に通じる”という言葉ができるほどであった。

 蟻川亨(ありかわとおる)院長を初代とし1921(大正10)年6月23日就任した花井善吉博士が第二代院長であった。

 新しく就任する花井院長に患者達は大きな期待を持ち、彼が現れるのを心待ちにしていた。しかし虎相の鋭い容貌を持つ花井院長を見て、患者達は首を横に振って諦念を抱いた。年は60過ぎに見え、見開いた目、付き出した頬骨、細く鋭い鼻を見れば、およそ慈悲心を持っているようには見えず、まして長期に渡り軍医として軍隊で過ごしていたという経歴の持ち主であるという事からも、前任者よりも厳しい事になるはずだと思った為である。

 しかし、時間が経つとその疑念は誤りであった事がわかる。実際の花井院長は、その印象とは全く異なり、患者には非常に尽くす人であったからだ。彼は700余人の患者の為に院務の革新に務めた。彼の言動は慈愛に満ち、その事績は数え切れぬほどである。衣服の自由と食糧を改善し、通信と面会の自由を与え、重病患者室の設置、二度に渡る病院の拡張、慰安会の開催、精神教育を施した。娯楽施設の設置や互助会の組織を作り患者等が別世界での生活を楽しむ事が出来るよう献身した。

 院長は患者等にこのように諭した。「父親は息子の言葉を聞かねばならず、また息子も父親の言葉を聞かねばならない。君たちは私の息子であり娘である。父親として子供の言葉を聞くから、君達も父親に従うように。」‘息子、娘’という呼びかけに患者達は院長に信頼を寄せ希望を持って不満を訴えた。

 花井院長は患者の要望を叶えてあげることを約束した。就任三ヶ月後に光州、釜山、大邱の三つの診療所を出張視察し問題点の改善に着手した。

 まず第一に改善したのは患者等の生活様式である。強制的な日本の生活様式が患者等に合わず不便であると分かると、民族服での生活と、食事も口に合うように病院別に韓国式に作って食べるように改善した。このように5年の歳月をかけて患者にとって風俗に合わず不便極まりない生活様式を撤廃した。食事も与えられた給食ではなく、それぞれが病室で韓国食を自由に口に合うように作って食べる事が出来るようになった。患者達にとってはこれだけでも大きな喜びであった。患者達は院長を父親のように慕い喜びも悲しみも共に分かち合うようになった。

 院長は病院の改善のために各地を忙しく飛び回った。「収容患者に満足な衣食を与え、親切であれば彼らはおとなしい羊のようになる。しかし患者の為に尽くしもしないで無理に押さえ込もうとすれば逆らわれる事になる。万が一、患者に害を与える者がいれば、その者は理由が何であろうと厳しく処罰する。」と院長は部下の職員達にこのように諭し職員と患者との関係に心を配った。

 院長はソウルに行けばお土産として飴を配り、東京へ帰った際には菊模様の宮廷菓子を下賜された物をもったいないと持ち帰り、分け与えるにはその量が少ないと考えた末に、その菓子を粉々にして材料に混ぜ、沢山の菓子を作って患者に分け与えた。記念日や韓国の名節の日には米や豆などの雑穀を配った。時には餅米や粳米が配られることもあった。

 家族との通信、面会も自由になり実家への帰省も許可されるようになり、宗教の自由も与えられるようになった。洗濯は女性患者が男性患者の援助をしてやるように制度化した。身体障害者は別に収容し健康な患者が付き添い世話をするようにし、その為の報酬を付けた。また三年制の学校を設立し知識人を教職に採らせた。娯楽施設の拡張、運動場を整備し運動器具を揃えた。慰安会の組織にも着手し精神慰安にも力を入れた。また互助会を組織して園内では出来ない営利事業をするようにして、そこで得た利益を障害者のために費やした。読書を奨励し楽劇、演劇、唱劇、映画などの娯楽、演芸団を招き、1928年には品評会を開いた。

 1925年10月、病院拡張のために周辺の土地を測量したが、周辺住民は住居を失う為に反発、院長宅に押し掛け測量の即時中止を訴えた。しかし院長は国家の方針であるからと要求を拒否、周辺住民が200人余り集まり、凶器を手に病院を夜襲した。この暴動は警察官が緊急出動して鎮圧された。

 この襲来事件があったものの、予定通りに隣接の土地を買収し、病室20棟、事務室、治療所、風呂場、礼拝堂、倉庫などを増築、患者200人を新たに収容した。その頃には患者数は500人に急増していた。

 こうした活動を行う中、“慈父”として慕われた院長の記念碑を建てようとする動きが患者の中から出てくるようになった。1928年頃から院長の体調が崩れ始まる。60歳を超える体に鞭を打ち園の改善のために奔走し続けた無理が祟ったのである。1921年に58才で病院に就任して8年4ヶ月目の1929(昭和29)年10月16日、患者達の祈りも虚しく病院近くの院長の自宅で脳溢血のため殉職された。患者達は自宅玄関まで駆けつけその死を悼んだ。患者達は自分の父親が亡くなったかのように盛大な葬儀を行った。生前に建てることの出来なかった記念碑は1930年に建立推進委員会を組織して患者達からも募金を募り建立された。

 解放後、李承晩政権の日帝残財精算政策によりこの碑石を病院当局が排除しようとしたが、患者達が土中に埋めて隠したため難を逃れ、5・16以降に発掘された。申汀植院長の時代になって中央公園に移され、孫院長の時代になって本来の建立場所に碑石は帰ることとなった。

 院長の案内で島内の施設を見学した。花井先生が診療していた当時の建物は朽ち果て野晒しになっていた。ハンセン病の歴史、小鹿島の歴史の証人であるこの建物こそ文化財であり保存する価値があると力説したが、院長は「予算がなくて」と申し訳なさそうに言うだけであった。

 歴史資料館に案内された。「最近、多摩全生園資料館を見学して来たばかりで全生園の患者と交流し学んできました。今こうしてようやく資料を集め資料館を開きましたが資料が散逸してしまい努力しているところです。」と話された。私はその資料室で説明をされたご老人に「花井院長を知っておられますか。」と尋ねてみた。

 「患者達は皆、花井院長を本当に尊敬しておりました。私達夫婦が一緒に暮らせるようにもして下さいました。李承晩政権の時、花井院長の顕彰碑を取り壊そうとしましたが私達は命懸けで土中に埋め守ったのです。」と当時の事を上手な日本語で回顧した。

 尊く誠実に営まれた業績は時代が移り変わっても、何の変色もなく輝き続ける証を見た。浅川巧に於いても忘憂里が証明しているように、今も生きた証人が証明している。人間が人間らしく他者への思いやりを持って生きれば、それがあるがままに普遍の歴史になるのだと私はこの小鹿島で確認した。

 2001年夏、光州市立美術館金善姫学芸室長から、1980年代の光州民主抗争を主題とした作品を制作している画家に会いに行こうと誘われた。光州に近い、都市化が進みつつある静かな農村にそのアトリエはあった。紹介された画家は光州市立美術館の行事の折りに度々お会いしていた全南大学教授の申Q浩教授であった。アトリエにある作品を拝見し画集などで作品の説明を受けていた時、話のはずみで私は小鹿島の話をした。すると教授は「私の父、申汀植は小鹿島の院長をしておりました。」と話された。申汀植院長は5・16以降発掘された花井善吉の記念碑を中央公園に建立した方である。なんという御縁であろうか、思いもかけぬ偉大な人物を知る事となった。

 その申汀植院長を紹介したい。小鹿島は日帝時代の癩病患者隔離政策のモデルケースとしては世界最大の病院である。小鹿島の癩病院院長職に就かれた方は大抵が不名誉な境遇で終わる方が多かった。申院長は病院創立以来の最長17年間もの在任(内5年間は医務官、1974年以降12年間は院長)し、病院の姿を変えた。5000名を超える患者らの自活意志を鼓舞し、島内に栗、柿、林檎など果実などを植えて収益を得て病院運営を支えた。小鹿島は「死ぬ日を待つ場所」から「病に負けず生きる場所」に容貌を一新したのだ。

 申院長は患者と職員との間の全ての差別をなくし、自らが治療にあたり食事を共にした。看護婦等もそれに従い重患者の手足を洗ってやり、誕生日には同席してパーティを開いた。手袋を付け長靴を履き、マスクをして治療をしていた日帝時代を考えれば隔世の感がある。看護補助学校を設立し故陸英修女史(朴正熙大統領内)の寄付金で作った重患者病棟は国際水準のものである。在職の1984年にはローマ教皇ヨハネ・パウロ二世が小鹿島を訪問された事で全世界に紹介される栄誉を得た。韓国人ほど癩病を恐れ蔑視する国はない。国民を癩病に関する偏見と認識を正す為に執念をもって努力されたのが申汀植院長である。

 2001年、小泉総理の英断により、ハンセン病患者に対する隔離政策をめぐる被害訴訟は控訴を断念した政府が、謝罪し国家が補償する事で患者らと和解が成立しハンセン病患者の人権が回復された。ここに至るまでの何世紀に渡る暗夜に、一筋の光が射した。21世紀に入って、韓日のハンセン病患者らの苦痛が癒され、病いと人権との闘いの歴史に光明が見えたのは救いであった。しかし忘れてはいけない。今日という日があるのは韓日の先人達の血の滲むような愛の献身があったからこそだという事を。家族も親族もなく、故郷も家もない天涯孤独の恨みと淋しさは癒される。「倶会一処」と来世にかけた患者らの再生への悲しい誓いの言葉は、この21世紀には風化する事であろう。

河正雄著「韓国と日本・二つの祖国を生きる」明石書店(2002.3.25)

リンクアイコン追記へもどる ホームへ