◇合同追悼式で祈る◇

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合同追悼式で祈る

 みぞれ降る2005年2月19日午前9時、西武所沢球場に近い埼玉県所沢市の山口観音・金乗院(真言宗)で、埼玉県の朝鮮総連、韓国民団、強制連行真相調査団の三者合同主催による、朝鮮半島出身徴用工犠牲者合同追悼会があった。

平成5年45柱(対馬の品木島で1984年6月15日収骨したもの)、そして平成15年86柱(壱岐・対馬に仮埋葬されていた遺骨を1976年に収骨し、本願寺広島別院に安置していたもの)を厚生労働省の依頼で金乗院に保管されていた131柱の御霊の追悼会である。

日本の敗戦後、徴用によって日本に強制連行された朝鮮半島出身労働者の乗った祖国に帰る船が台風のために対馬壱岐沖で遭難した。三菱重工などで働かせられ、広島で被爆したと見られる朝鮮労働者の御霊を鎮めるものである。

 式の始めに総連委員長と民団団長が供物のお膳の前に並んで朝鮮式の拝礼をした。住職の読経の後に石田貞調査団長より日韓、日朝を架け橋され、三者合同開催までの経過報告があった。

追悼の言葉は韓国より日帝強占下強制動員被害真相糾明委員会・全基浩(慶熙大学校名誉教授)委員長がされた。昨年、廬武鉉大統領が小泉首相との会談で「戦時中の民間徴用者の遺骨収集への協力」を首相に要請された。

今、韓国では日帝強制占領下の強制動員被害(満州事変から太平洋戦争期間に旧日本軍による軍人、軍属、労務者、従軍慰安婦など強制労働被害者の生命、身体、財産上の被害)調査が行われている。その一環として日本でも全国を調査して真相を究明すると全会長は述べた。(民団でも全国調査することとなった。)そして総連委員長、民団団長は1日も早く祖国に埋葬され安らかに眠れますように尽力するとそれぞれ追悼の言葉を述べた。

 式を終え、祭壇に安置された131柱の遺骨が入った16個の段ボール箱入りの骨壺の内の3個が赤い敷布の上に降ろされた。そして骨壺から遺骨が出され公開された。私はその時、坪の中から御霊が現れたような戦慄を感じた。合葬されて焼かれた遺骨は粉々になっており、ゴミも混ざっており遺骨とは形容しがたい、人間の死の尊厳などは微塵も感じられない、無惨極まりないものであった。

「犬猫でもこんな事はない。骨壷を段ボール箱に入れるなんて霊を冒涜している。」洪祥進調査団事務局長は恨(ハン)を込めて説明された。名もなく合葬された御霊を131柱だけと数だけで呼ぶには余りに胸が痛む。厚生労働省は「徴用工の遺骨である可能性が非常に高いが、個々の身元は確認できない。」として韓国側と返還協議中であるという。

遺骨が安置されている本堂裏の納骨堂は今だ、波濤の中にある難破船のように思え、とても御霊の安寧の眠りの場所とは思えない。戦後60年経つが日韓、日朝間の波は今だ高く、御霊の安寧は幻の如きであると追悼の思いは重く痛かった。

何故なら以前に強制連行の調査でお会いした李用鎮さんど四鉉氏のことが脳裏を掠めたからだ。お二人は私の故郷である秋田県田沢湖を水源とする発電所工事に従事した徴用工である。李さんは、その現場から逃亡した後、病魔と闘いながら横須賀で生きながらえた。゙さんは戦後、韓国全羅南道霊岩郡三湖面に帰国し唯一生き残られた生き証人である。

私は1994年に李さん、1999年に゙さんと会って、秋田での強制連行の真相を調査したことがあった。(その経緯は明石書店刊・河正雄著「韓国と日本・二つの祖国を生きる」に詳しく記述している。)その時お二人は異口同音に日本政府や韓国政府に保証を切実に求め、無策に抗議していた。だが李さんは、何の保証も謝罪も受けることなく2005年1月5日に逝去された。生前に徴用の代価を何ら受け取ることが出来なかったことが痛ましい。遅きに逸した調査が進んで徴用犠牲者達の苦痛が少しでも癒され、名も知れず亡くなっていった方々の名誉が回復することを願わずにいられない。

 在日として光を見たのは三者合同で追悼式が執り行われたことである。そこには日韓朝の国としての壁は無く、ただ慰霊の気持ちだけがあった。これこそ御霊の導きであると思った。不幸な出来事は世に満ち溢れ、ただ嘆かわしいばかりである。しかし、その中から学ぶことにより、より良い世の中を築いていくことも可能なはずである。今朝の春雪が我々を取り巻く不条理を浄化し清め、英霊の安らかなることを祈らずにはいられない。

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