満月照らす金剛の峯を望んで

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満月照らす金剛の峯を望んで


はじめに

 金剛山は建国神話に始まって、新羅時代から三神山として崇められ、古より韓民族の崇拝と信仰の対象である。また美の対象でもあり芸術的審美の叙事として捉えられてきた。金剛山は歴史の舞台、文明の背景であり、韓民族の伝統的な精神世界と文化を育んできた重要な位置を占めている。

 在日の私にとって金剛山は憧れの対象であり夢の中でしか、その姿を描くことが出来なかった。死ぬ前に一度は行くことが出来るだろうかと長い間、想いを寄せていた。1998年になって政経分離、太陽政策の成果により韓国の現代グループが南北統一の礎となる金剛山観光の道を拓いた。

分断後53年ぶりに南北民間交流が実現し、海路から天下の名山を観光することが出来るようになり、2004年には陸路で38度線の境界を越え、秘境を探訪する道も拓けた。それ以来、昨年までの金剛山の観光者は80万人であったというが、今年一年の計画では50万人を予定しているというから飛躍的な伸びを見せている。統一に向かって金剛山は政治的な位置をも占める重要な観光スポットになろうとしている。



旅立ち

 昨年の晩秋、春川の隣街、龍川のスキー場コンドにソウルの友人が招待してくれた。その時、旧正月(ボルムナル)には金剛山で開催される「統一祈願観月(お月見)行事に参加しましょう」と誘われた。

民間レベルで南北交流協力の主旨で設立された統一部傘下社団法人ジウダウの主催によるイベントである。

 「祖国光復60周年、分断60周年、6.15共同宣言発表5周年を記念して、詩と調べと共に金剛山で正月の満月の統一観月を行いたいと思います。昔から正月の満月を見ながら懸けた願いは叶うと言われています。民族の名山、統一・平和の聖地金剛山で正月の満月に民族統一の願いを懸けましょう。2005年、我々民族の希望を明るい月を眺めながら祈りましょう。」と年明けに案内が届いた。

 私と妻はソウル昌徳宮から観光バスに乗ったが、早々に「金剛山を観光することは海外旅行と同じであると思って下さい。」と添乗員に釘を刺された。南北分断とはいえ、北側も我が祖国と思っている私には同じ朝鮮半島に異なる文化を持つ「外国」が存在することである現実を再確認させられ、緊張感がよぎった。



北側に入る

 38度線の統一展望台(以前は南側の最北限基地で一度私は訪ねたことがある)下に南側(この地点からは韓国、北朝鮮とは呼ばず、南側、北側と表示、呼称している)の出入管理事務所で手続きを終えバスを乗り換え、金剛山専用道路を走り鉄条網(電流が通っている)の張られた非武装地帯を進んだ。

この道路は南側の資本力と北側の人力で完成させたものである。その道路の脇には分断されていた京義線が繋がれて北側に伸びていたが、元山までは昨年末までに開通するとの話があったが、現在のところ開通はしていない。そこは手付かずの自然の保護区域のようであった。

38度線の南北境界線でバスは停まった。北の軍人が挨拶もなしにバスに乗り込んできて人数を確認した。その間、車内は静まり返り、乗客は身じろぎもせずにうつむきながら彼らの様子を窺っていた。何とも言えない緊張感を感じていたが、その状況、心情はとても複雑で表現することが出来ない。

余りにいたたまれなかった私は目をそらして窓の外、遙か遠くに目を移した。零下5度にもなる雪原の山裾に黒い牛が放牧されていた。そののどかさは車内での緊迫感のギャップが余りにもあったため、不自然さを感じ奇異なものに映った。

 北側に入ってから民家が防壁の左右に見えた。煙突から煙が力無く上がる様子は、まるで半世紀前に戻ったような佇まいで、寒々とした風景である。どの家からも光らしいものは見えず、無人の町のようにも思えた。道路には雪道を歩いている人と両手にバケツで水を運んでいる女性、自転車を押している人が点々と見えた。

1台のトラクターに10数人を乗せたものがすれ違ったが、その何人かが我々に手を振ってくれたので心に温かいものが流れた。それ以降は北側を去る日まで自動車を見ることはなかった。

 海金剛の港に北側の出入管理事務所があった。「あなたは在日同胞2世でしょう。」「そうです。」「なぜ光州市立美術館の名誉館長をしているのか。」「父母の故郷が光州である縁故から。」という軍服の事務官とのやりとりの後に北側に入る査証の印をもらった。質問の内容、眼光から、この事務官は優秀な人なのではないのかと見直した。



将軍の絵

 経営は現代亜山、従業員は北側の人間だという金剛山観光ホテルに到着した。道路の横断幕には「我々の式(やり方)で生きていこう」、ホテルの脇には「21世紀の太陽、金正日将軍万歳!」というスローガンが掲げられていた。

このスローガンには6者協議の不参加を表明し、核兵器製造を宣言している北側の「敵対政策を解消せよ」「主権を認めよ」「内政干渉をするな」という意志、北側の言う主体思想が表されているとの印象を得た。少し離れた所に金日成将軍が公園で遊んでいる幼児と語り遊んでいる様子の壁画があった。

この絵は朝鮮画報で何度も見た絵であり、金日成将軍の顕彰碑であった。その碑の周りを降りしきる雪を一生懸命掃き払っている(というよりは掃き清めている)婦人がいたので「有名な画家が描いたものと思いますが、誰が描いたか知りませんか。」と尋ねたが「わかりません」と怪訝そうにその婦人は答えた。

その時、突然に森の中から警笛が鳴り、赤い平旗を振って軍服の警備員らしき人が現れ「話をするな、離れろ。」と警告された。突然のことで私はひどく驚いてしまい冷や汗をかいた。

 その絵が良い絵であると思ったので、その晩、再度見に行った。降りしきる雪の中で、またしても前述の婦人が金日成将軍の壁画の周りの雪を払っていた。

金日成将軍は人民に、こんなに敬愛されているのかと思うと共に、選任として任務としてやっているのだろうかとも脳裏をかすめ、その婦人の姿を見ながら声をかけることなく思いにふけった。

 鍵をもらって部屋に入ったところ、点いていた電気が消えてしまった。しばらくしてルクスが下がった状態で点いた。テレビが設置されてはおり南側の放送だけが受信できるものであったが見ることは出来なかった。薄暗い中で明日の登山の荷造りをして早々と眠るしかなかった。

翌朝、フロントの支配人に事情を尋ねたところ電力不足が原因だったらしい。一般市民は1日に1時間しか電力供給を受けないとも聞いている北側の電力事情を考えると、不平を言うよりも北側の人たちの境遇を考えてしまい申し訳なさが先に立ち、その晩は眠りにつけなかった。



金剛山登山

 翌朝9時金剛山登山に出発した。外金剛九龍峰コース、約4.3km、往復約3時間半の行程である。金剛山の面積は済州道とほぼ同じ160ku、山勢は険しく雄大、大きな滝がある外金剛、山勢が穏やかで潭と沢が多い、内金剛、海に隣接し奇岩絶壁を持つ、海金剛と区域分けされており全山懐を金剛山と呼ぶ。
毘廬峰1638mを主峰とする1万2千の峰が連なる。ツアーの一行の中に主催者の趙世衝前駐日大使が参加されており再会を喜び挨拶を交わす。

 「金剛山の山岳風景を、どう言葉や文字で全てを表現できようか。金剛山の大自然
を問うべからず。目でもその全てを見ることが出来ないものをどうして言葉で語れようか。金剛山の大自然を知ろうとするならば、ここに来てみるべきだ。」と詠われている。その詩に誘われ夢にまで見た金剛山の山懐山脈への感激と感動は言葉に言い表せない。水墨画の名画のようであった。

 「お前を最初に見た時、私は恍惚となった。二度目は自分自身を忘れた。3度目に見た時はいっそ家族とも別れてあの峰、あの谷、あの岩の1つ1つに込められた物語を集めお前の懐に抱かれ生きん。」(小説家・鄭飛石)の礼讃に、私もその世界に全身全霊を委ねる。

 山道は雪が深かったが北側の奉仕員達が山路を作ってくれて有り難かった。150mの絶壁から滑り落ちる九龍滝は凍りついていたが、朝鮮三大滝の折り紙付きの風格、品格で誇る景勝である。飛鳳滝、武鳳滝も同じく凍りついて水晶のように輝いていた。名だたる渓谷は春雪の布団に眠っていたが微かにせせらぎが聞こえ春の近いことを告げている。

 登山コースにあった巨石(特に名のある金剛門など)に金日成将軍を讃える赤字の刻文が数多く見られた。この先、金剛山が世界遺産に指定を受ける事があった場合、この刻文がどう評価されるのだろうかと考えた。金日成将軍の碑石のあるところは、どこも雪を掃き清められて北側の人が監視していた。それは崇拝の現れだろうと思うしかなかった。

 観光客が一般の北側住民に接する機会はあったがコースの要所に配置された北側の奉仕員からは挨拶はない。私達からの挨拶に目で答えるのみ(中には何ら反応しない人もいた)で、コミュニケーションがとれないのは旅人の心情としては淋しかった。しかし昨年よりは少しずつ挨拶があるようになってきたと案内員が教えてくれたことから、親密な関係を築くにはまだ時間が必要なのだと理解するしかなかった。

 


朝鮮はひとつ(ハナ)

 登山が終わって金剛山文化会館で平壌曲芸芸術団公演を見た。空中サーカスは世界的と評判があり、日本のテレビでも見たことがあった。ピエロ役の俳優も見覚えがあったので親しみを感じた。昨年上海で上海曲技団公演を見ていたので、水準は世界的に通用するものであると納得した。

 公演中演技に飲まれ何度も涙が出てきた。それは芸術的な演技による賞讃と感動から来るものであった。アクロバット演技のフィナーレに白地に青の朝鮮半島の地図の旗が振られた。そこには「ハナ(ひとつ)」と書かれていた。舞台と観客が1つになった瞬間で大きな拍手が起きた。

次に赤地に青の朝鮮半島の地図の旗が振られた。しかし傍から「北側流の『ハナ(ひとつ)』では困るなあ。」と冷めた声が聞こえたので、瞬時に夢から覚めた気分になってしまった。少し間を置きソウル大の国楽公演があった。実は平壌モランボン校芸団総合校芸公演との交流があるはずだったが今年は実らなかったというので、主催者は折角の南北交流が出来ずに残念がっていた。

  


マッコリの味

 公演を終えて屋外に出るとものすごい雪が降っていて旧正月(ボルムナル)に春の雪が降った、これはよい報せであると喜んだ。感動冷めやらぬ気分で食堂に入り、マッコリ(濁り酒)を注文した。その瓶に貼られたラベルには「一杯では満足しない。

もう一杯飲めば力と勇気が湧いてくる。無病長寿、マッコリ(濁り酒)のおかげであることをくれぐれもお忘れないように。」また「脳血管、高血圧、心臓疾患、健忘症や美容にも良い」とも書いてあった。その味は南側で飲んだものよりも私には美味しく感じられた。

ラベルの文句通りだと言ってはもう一杯、もう一杯と飲み交わした。だが、その時ふと北側の人達はこのマッコリを我々のように飲み交わすことが出来るのだろうかと考えた途端、酒の酔いが醒めていくようだった。店の奥では北側の娯楽番組のテレビ映像が流れていたのを見た。同じ区域内でも南北の情報の分断があるのがわかり、気分が暗くなった。

 ホテルへの帰り道、もう九時を廻っていたが、また金日成将軍の壁画の碑を見ると昨日の婦人が吹雪の中、雪を掃いていた。私はその光景を見て崇拝だけではない、任務、命令でやっているのだろうかと思えたのだが、北側の人達に同情することもまた失礼なことかもしれないと、非常に複雑な心境になってしまった。



永遠なる金剛山

 3日目の朝は快晴となり、金剛山の峯々は清々しく気品に満ちた勇姿を見せていた。昨夜の春雪を踏みしめて萬物相コースの登山に出発した。万物の姿を映した奇岩、怪石と鬱蒼とした森、「萬物相を見ずして金剛山を語るなかれ」と言われるほどの絶景であるというが、雪が深くて萬物相登山は途中で断念せざるを得ず、有名な鬼面岩、三面岩を見ることが出来なかった。

温井里から神渓川畔の松林を散策する往復2時間の行程であったが、松林の美しさは姿、形、色のどれをとっても金剛山を引き立てる芸術品といえるものである。冷気の中の金剛山の山脈と山塊をバックにしての金剛の朝の光はまばゆく、神々しいものであった。神気、霊気が五感に染み入るような朝の登山を私は満喫した。

 こうして帰途に就いたのであるが、我々南側の人間が行動した金剛山は電気が通り、鉄条網に囲まれた中であったことが何よりもストレスを感じた。それは我々が駕籠の鳥のように感じられたが、鉄条網の外にいる北側の人々もまた、更に大きな鉄条網の中で生きているという現実に複雑な想いを抱いたからだ。
国際社会で孤立せず、北側には核兵器製造を放棄し、民主化され開かれた社会を何よりも切望してやまない。

 引き裂かれ、憎しみ合い、南側も北側も鉄条網の中で生きている現実は不幸である。その不幸を思うからこそ、北側で私は事あるごとに涙が溢れてくるのを抑えることが出来なかった。北側を抱擁すべき可哀想な同胞との、同情心を超えた人類社会の普遍的倫理と、不条理に対するやるせなさが込み上げてくるからだ。

鉄条網の中では漢民族に真の幸せと安寧がないのだという事を肌で感じさせる痛みを帯びた旅であった。もう一つの外国でなく「朝鮮半島は1つの国」で生きることが最大の幸せをもたらすのだと確認した金剛山観光であった。また秋には錦繍金剛の峯々を歩いてみたい、その時には京義線に乗って訪ねたいと願った。
 ボルムナルの満月の月が金剛の峯々を明るく輝かし、月の光は優しくまたの来訪を誘うかのようにソウルに向かう我々を見送るようだった。この明かりが、何よりの救いのように我々の心を照らした。

 

満月照らす金剛の峯を望んで
東洋経済日報(2005年3月25日・4月1日。4月8日掲載)

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